敗戦直後の中国東北部(旧満州)にいた開拓団の仲間を守るため旧ソ連兵らを「性接待」し、現地で亡くなった4人の女性を悼む岐阜県白川町の「乙女の碑」に当時の経緯を伝える碑文ができ、18日に除幕された。生き残った女性や遺族ら約60人が集まり、悲劇を語り継ごうと誓った。

朝日新聞 「乙女の碑」の隣に設置された碑文(右奥)の除幕式で語る佐藤ハルエさん=2018年11月18日午後、岐阜県白川町、吉本美奈子撮影

 

 性接待は岐阜県の旧黒川村(現白川町)などから吉林省陶頼昭に入植した黒川開拓団で1945年9~11月にあった出来事。現地住民による略奪暴行から保護してもらう見返りに、旧ソ連兵に17~21歳の未婚女性約15人が差し出された。戦後伏せられ、82年に慰霊のために乙女の碑が建立されたが、建立の理由を説明する碑文はなかった。

 

 碑文を記した説明板は縦1・2メートル、横1・7メートルのステンレス製。関東軍が先に撤退し、開拓団が取り残された史実から、「生きるか死ぬか」「女性たちは(中略)『嫌だ』とは言えず」と生々しい言葉で、当時の経緯がつづられている。全体で4千字を超える異例の長さで、「引き揚げ後も、恐怖は脳裏に焼きつき、そのうえ中傷もされた」と戦後の状況にも触れている。

 

 「黒川分村遺族会長」の藤井宏之さん(66)は女性たちの犠牲や、戦後も公に感謝を伝えてこなかったことについて何度も言葉に詰まりながら、「罪深く申し訳ない気持ちでいっぱいです。助けられた親の息子として責任を果たしたい」とあいさつした。数少ない健在の当事者の女性の一人、岐阜県郡上市の佐藤ハルエさん(93)は「仲間も供養を喜んでいる」と話した。元開拓団員の男性がハーモニカで「故郷」を吹いて、慰めた。