みなさん、こんにちは🤗
お久しぶりです
今日4月13日は、6年前に私が頸椎椎間板ヘルニアの手術に失敗して四肢麻痺になった日です。
毎年この日が近づくとものすごく心がざわつきます。
今年も3月は苦しかったです。
まさか手足の自由が奪われるとも知らず、手術すれば良くなることを信じて、一人息子の高校入学準備に忙しい日々を送っていました
箸も持てなくなっていた右手で高校に提出する父兄用の作文、題名は確か『(我が子に)どんな高校生活を送ってもらいたいか』みたいなこと。
原稿用紙1枚だったか2枚だったか肝心なことは覚えていませんが、ゆっくりと丁寧に丁寧に書き上げました
(出来の悪い親と思われたくないし、息子に恥をかかせたくない)
何時間もかかって体操着に名前を縫い付けました
(不器用な親に思われたくない)
手術の前日は息子が病室に来て、生徒会役員になるにあたり、親の同意書にサインをしたのが直接息子に出来た最後の親としての仕事だったかも。
「お父さんに頼めばいいのに」と思いながらも、わざわざ病室に来てくれたことがとっても嬉しかったことが昨日のことの様に思い出されます。
きっと息子は生まれ変わって高校生活をスタートさせたことを私に見せ、安心させたかったのかも。
2週間、或いはもっと早く退院出来ると言う説明で入院して今日で7年目に入りました。
「すぐ帰ってくるからね。お利口にお留守番しててね」
と愛犬の目の前でタクシーに乗り込んだ嘘つきな私。
愛犬は私の入院後体調を崩し余命宣告までされましたが、神奈川県の日大動物病院で手術して3年が経ちました。お陰で今も元気で生きています
だいぶ年とりました。9才です
息子は大学4年になりました。バイトをやめ就活に真っ只中の様です。
私が今出来ること。
大学の授業料を支払いました💴何もしてあげられなかったのでせめて最後の1年は金銭面で面倒見てあげたかった。
病室で内定の朗報を待っています
4月13 日はお昼から手術室に入り、手足が動かないことで夜に2度目の手術。
目が覚めて首から下が全く動かない。
その時は私自身今後一生歩けない体になるなんて1ミリも思ってもいませんでした。
1日開けて15日、3度目の手術に臨みました。感情は特になかったような。されるがまま。疲れていたのだと思います
金曜日だったため月曜日まで挿管されたまま過ごしました。
何かあった時の『体の拘束の同意書』を私の横でダンナに求めていたことは記憶にはっきりあります。
(体全く動かないし)
病院にICUはないので病棟のHCUでの長〜い長〜い闘いの日々が始まりました。
身動き1つ取れず、天井のマス目を見つめる毎日
よくTVの怖い話しの番組で、天井に黒い影が現れると人が死ぬとか見ていたから、黒い影が現れないか恐怖で天井を見つめていました
いつ下がるともわからない高熱、結局褥瘡はカレーパンが入るくらいのポケットになり、菌にも感染し、いつ敗血症になってもおかしくない場面は何度かあったと思います。
痛みの感覚がないから処置されても痛くない。
幸いでした
頑張ったつもりはないけれどよく持ち堪えたと思います。
主治医に「スイスで安楽死したいからお金出してくれ」とお願いしたこともありました💴
あの頃も誰にも八つ当たりしてないし、暴言も吐いていない。我儘も言ってないし、困らせる様なこともしていない(安楽死発言は困ったかも)
よく耐えたなあとつくづく思います。
私がこの病院を選んだことで、家族の人生を狂わせてしまいました。
申し訳なさでいっぱいです🙇♀️
家族に八つ当たりなんか出来るはずもありません。
最近医療問題を多く扱う弁護士事務所に変え、改めてカルテ開示請求をして、補償交渉或いは裁判がこれから行われると思います。
カルテ開示の件については長くなりますので後日書きたいと思います。
因みに今日は、
*ギャバロンの交換日💉
*足の爪を見てもらうために形成受診
*昨日不正出血?バルーンカテーテル交換に失
敗による尿道出血?をしたため急遽産婦人科 受診
*週1の骨粗鬆症テリボン注射💉
*腰痛椎間板ヘルニア発症の痛みのた
め、仙骨ブロック💉
以前生涯に一度しかできない治療『ヘルニコア』をやりました。
局所麻酔してレントゲン透視下でヘルニアのある椎間板内に針を刺し、神経の圧迫を弱める方法。
私には効果がなかったことがわかりました
2022.4.8撮影
以上とんでもなくハードスケジュールな1日
これに通常のリハビリも。
いろいろ起こりそうな予感がします。
でもいろいろ考えている暇がなくてよかったと思います。