だいぶお久しぶりです。

 

パラリンピック開催前にあたって学校連携観戦をどうするかという中、口々にこう言う発言が

されましたね。

 

 

サムネにお顔が出てしまっのは、まあ…ということで。この件についてはTwitter で吠えました

のでそちらに任せるとして、

 

今日はこの記事を読んで、そこでの私見を言語化してみようかと。

 

 
さて、記事内容は読んでいただきたいのですが、記事内の初めに出てくる母親のコメントには
概ね同意です。特に日常で分離されているというのはその通りだと思います。
 
息子は保育園を卒園して以来、弟以外の健常児と接する機会がほぼ0になりました。かろうじて公園などで近所の子どもと一緒になるくらいです。学校も特別支援学校という事で県の管轄になったことで、地域とのつながりも最小限になってしまいました。
 
このことも大きな問題をはらんでいるとは思いますが、その次の「障害があっても努力で…」
という部分ですね。障害者スポーツになるとよく出てきますね、タイトルにもした、「障害に勝つ」「障害に負けない」というフレーズ。ほんのちょっと前まではよく聞かれていました。
 
サクッと結論から。
 
私は意味が分かりません。
 
そもそも、障害に勝つとはどういうことでしょう。障害に負けるとはどういう事でしょう。障害を
乗り越えるとはどういう事でしょう。障害児の親である私自身、さっぱり分かりません。

学校に行って勉強し、給食を食べ、放課後は遊んだり、習い事に行ったりする。これを「普通の」生活とするならば、息子も学校に行って学び、給食を食べ、放課後は療育=習い事に
通う。その中では障害を考慮して、学校やデイサービスで特別な支援を受けていますが、ほぼ同じような生活でしょう。そこに健常児も障害児も違いはないでしょう。
 
もしや、この「特別な支援」がなくなる事が「障害に勝った」「努力して乗り越えた」という事なの
でしょうか。それともこれらの生活の中で、スポーツをしたり音楽などをすることが障害に勝つことですか?障害を努力で乗り越えた結果ですか?よく分かりません。
 
例えば、パラアスリートの方々はパラリンピックに向け、血の滲むような努力をしたと思います。それはシンプルに競技で良い結果を残すための努力ではないでしょうか。「アスリート」としての努力なのではないでしょうか。「障害に勝つ」とか、「乗り越える」といったことを主として、その努力を語り称えることは、アスリートである選手たちへの敬意を著しく欠くことになるのではないでしょうか。
 
私自身、将来息子が少しでも社会生活ができるようになることしか考えていません。その中で
本人にやりたいことやのめり込むことが出てくれば、できる限り応援し、サポートするだけで
す。そこに障害の有無は関係ないでしょうし、ましてや勝ち負けとかいうものでもないでしょう。
 
だから、私は意味が分からない、意味を見出せないのです。
 
ここまで偉そうに書いてきましたが、当事者親としてはそう割り切れるものでもなことも分かります。直接言われれば私も痛みを感じるかもしれませんし、イラっとするでしょう。その点を
踏まえると、自分自身の捉え方・子どもへの接し方も気を付けなければと思います。
 
大きなイベントのあった後です。今、色々なことを皆さんが感じていると思います。そして、
このような当事者の話にニュースバリューを認めてもられるのも今だけでしょう。残念ながら…
 
だからこそ、今言いたいことを言おうと思います。普段思っていることを言おうと思います。
今なら少しは耳を傾けてくれるかもしれません。今を逃したらまたいつになるか分かりません。
 
いつも通り長くなりました。支離滅裂かもしれません。お目汚し、失礼しました。