何とも物騒なタイトルですが、自民党、野田聖子衆議院議員の記事を読み、ブログを読み
ました。そこで、時折考えることを少し。
私の過去記事にあるように、第一子は死産、第二子は仮死状態での出産。大体5年間で
これらのことを経験した私(我が家)、「死への耐性」とは非常に共感する言い回しでは
あります。
野田議員の記事内にもありますが、「絶対は、ない」「明日はわからない」、その通りです。
第一子の時、まさか胎内で亡くなるなど、想像もしていませんでした。
第二子の時、産科に入院し、分娩室の数m横で障害が残るほどのダメージを負う出産に
なるなんて想像もしていませんでした。
いつ、だれが急に逝ってもおかしくない。
突き付けられた現実で、嫌でも受け入れざるを得ませんでした。
これがが議員のいう「死への耐性」と解釈しています。おかしな表現かもしれませんが、
もし家族で死の順番がずれても、悲しく、苦しみに包まれこそすれ、絶望し、自分が
壊れることはないような気がしています。
ただ、この「死への耐性」は「他者の死」への耐性であって、「自己の死」への恐怖は
正直爆上がりしています。
その出所はやはり「この社会に障害のある息子を残す」というものです。
怖いです。
順番通りに逝くこと。これは一般的には当然のことであり、幸せなことでしょう。
しかし私はそれが怖いです。かといって、子どもに先に逝ってほしいわけではありません。
だからこそ、誰かの手を借りながら一生を過ごすであろう息子を残して先に逝くことを
考えると恐怖に襲われます。
一年でも、一日でも、一時間でも、一分でも、一秒でも長く、生きなければ。死ねない。
久々の更新でめちゃくちゃ暗い話題です。
すいません。