魂のエネルギー変革者 Hiroko です
自己紹介のつづきです
自己紹介Part1 は コチラ
2000年5月
生まれてきた赤ちゃんは
産声を上げませんでした
呼吸をしていなかったので、すぐに
心肺蘇生法を施され、
救急車で県立こども病院のNICU
(新生児特定集中治療室) に運ばれました
医師から告げられた言葉は
「胎便吸引症候群(胎便を肺に吸い込んで起こる症候群)の為、生まれてすぐには呼吸ができなかったので、脳性麻痺があります。
耳もほとんど聞こえていません。
身体に複数の奇形があります。
心臓に穴が空いています。
腎臓が小さすぎて、きちんと機能していません。
・・・3日生きれるかわかりません。」
でした
こども病院で
主人や私の母が
そんな事を告げられているとは知らず、
私は、さっきまでお腹の中にいた赤ちゃんが
真っ青な顔で救急車で運ばれて行った現実すら
受け入れることができませんでした
今、起こっていることが
夢か現実か、意識が朦朧としている中
どうして私は『普通の赤ちゃん』を生めなかったのだろう
私が一体何をしたのだろうと、
何もかもから逃げ出したくなり
この世から消えてしまいたい、、、
そう思いながら泣き続けました
授乳室で赤ちゃんに母乳をあげている
幸せそうなお母さんを見るたびに
孤独と不安で、胸が張り裂けそうでした
当時21歳の私には、
あまりにも無情の世界、、、
出産した次の日
主人が私を
こども病院に連れて行ってくれました。
保育器の中で人口呼吸器に繋がれている
我が子を初めて見た時
やっと、現実だと理解することができました
その時に
ごめんね、、、という想いと同時に
消えてしまいたい、と思っていた自分が
本当に情けなくなりました
だって、私の目の前に
一生懸命、呼吸をして
『生きよう』としている小さな赤ちゃんがいたのですから
『もし、神様がいるのなら、
どうか、この子の命を助けてください
たとえ、短い時間でも、私はこの子と一緒に過ごしたい』
心の底から湧き上がってきた想いでした
この時から、私のモットーは
『今できる事は後回しにしない。1日1日を後悔しないように過ごす』です。
長い入院生活を経て
奇跡的に退院することができ
3人で一緒に暮らせるようにはなったけど
入退院の繰り返しの日々
何度も手術をし
在宅での腹膜透析生活も始まり
てんかん発作も毎日起こり
本当に大変でした
そんな中、心の支えでもあった
最愛の母が癌のため、この世を旅立ってしまいました
私が24歳、2003年1月のことでした。
私が、どれだけワガママを言っても
包み込んでくれた母だった
唯一、叱咤激励の言葉をくれた存在だった
まだまだ、傍にいて欲しかった
そして、親孝行をしたかった
いつまでも悲しんでいても
亡き母が心配するだけだと、
再び前を向いて歩んでいくと、
わたしの中に新しい気持ちが芽生え始めました
初めての子どもが重度の障がい児で
怖くて、次の子を生むなんて考えることは
なかったけど
当時、通っていた母子通園施設の行事に、
兄弟そろって楽しそうにしている光景に
弟か妹ができたらいいなぁ、という気持ちがでてきたのです
主人のご両親の協力を得て
2005 年 5月、元気な男の子を生むことができました
本当に嬉しかった
いつまでも赤ちゃんの長男と
生まれたばかりの次男
まるで双子を育てているかのような
慌ただしい毎日を過ごしている中
2008年8月
腎臓のドナーが見つかりました、と連絡があり
長男が8歳の時に腎臓移植手術をすることができたのです
神様はいてくれたんだぁ。と心の底から思えました
ゆっくり時間をかけて
少しずつ元気になっていく長男
ありがたい事に腎臓の機能が安定してきたので
入院することが、ほとんどなくなりました
養護学校にも、休まず登校できる喜びを感じ、
いつも、すぐ体調を崩すのではいか?と
ヒヤヒヤしていた日々から
穏やかな日常を過ごすことができていました
長男が14歳になった2014年
重度障がい児を預かってくれる
放課後デイサービスが近くにでき
思い切って、利用してみる事にしました
そして、私は
働きに出ることにし
自宅と病院で過ごした
この孤立した10年から
卒業することになりました
2017年
ある出来事をきっかけに私は
コンフォートゾーンから抜け出すことになりました
ある出来事はコチラ✨
自己紹介 Part 3 に続きます