伝説に彩られた日本最大最古の石塔 石塔寺 | シニアの の~んびり道草

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日頃の散歩や近場のドライブ、時には一晩泊りでぶらっと訪ね歩くことがある。そんな折、おお! これは綺麗だ、これは凄い、これは面白いと感嘆したり、感動したようなことを、思いつくまヽアルバム風に綴ってみる。

五木寛之著『百寺巡礼』(講談社)全10巻(2003.6.30~2005.9.30)の、第4巻滋賀・東海に「石塔寺(いしどうじ)」が紹介されている。同著によると、日本には7万数千もの寺院があるという。その中の「百寺」はごく一部にすぎないが、その百のなかにも、宗派も異なり、学問の寺、修行の寺、庶民信仰の寺などなど、まさに百寺百様である。この「巡礼の旅」の古寺選定はどういう基準なのか私には分からないが、有名な観光寺院、歴史の舞台として名高い寺、山奥にひっそりと佇む古刹など、日本を代表する寺であることは間違いない。

この第4巻の滋賀県には、三井寺、石山寺、延暦寺、西明寺、百済寺と石塔寺が選ばれているが、石塔寺だけは未だ訪れたことがなかったので、9月17日に参拝してきた。写真は「百寺巡礼」と同「ガイド版」。

石塔寺は、古くから「蒲生野」と呼ばれる、今の滋賀県東近江市にある天台宗の寺院である。山号は阿育王山(アショカおうざん、アショカ王とは約2,250年前のインドの王 )、本尊は聖観世音菩薩(秘仏)。石塔寺の名のとおり、境内には、阿育王塔と呼ばれる石造三重塔を中心に、数万基の石塔や石仏が並ぶ。阿育王塔については、次のような伝承がある。平安時代の長保5年(1003)に唐に留学した比叡山の僧・寂照法師は、五台山に滞在中、五台山の僧から、「昔インドの阿育王が仏教隆盛を願って三千世界に撒布した8万4千基の仏舎利塔のうち、2基が日本に飛来しており、1基は琵琶湖の湖中に沈み、1基は近江国渡来山の土中にある」と聞いた。寂照は日本に手紙を送ってこのことを知らせた。3年の後播州明石の僧・義観僧都がこの手紙を入手し、一条天皇に上奏した。そして、一条天皇の勅命により、塔の探索を行ったところ、武士の野谷光盛なる者が、石塔寺の裏山に大きな塚を発見した。野谷光盛と天皇の勅使平恒昌が掘ってみたところ、阿育王塔が出土した。一条天皇は大変喜び、七堂伽藍を新たに建立し、寺号を阿育王山石塔寺と改号した。寺は一条天皇の勅願寺となり、隆盛を極め、八十余坊の大伽藍を築いたという。以上の伝承のうち、「インドの阿育王」云々が後世の仮託であることは言うまでもなく、件の石塔は、実際には奈良時代前期(7世紀)頃に、朝鮮半島系の渡来人によって建立されたとみるのが通説である。この石塔は、日本各地にある中世以前の石塔とは全く異なった様式をもつものであり、朝鮮半島の古代の石造物に類似している。湖東地区が渡来人と関係の深い土地であることは、『日本書紀』に天智天皇8年(669)、百済(当時すでに滅亡していた)からの渡来人700名余を近江国蒲生野へ移住させた旨の記述があることからも裏付けられ、石塔寺の阿育王塔も百済系の渡来人によって建立されたものであるとの見方が一般的である。鎌倉時代には、阿育王塔の周りの境内に、五輪塔や石仏が多数奉納された。安土桃山時代、織田信長の焼き討ちにより、七堂伽藍、木造建築物、寺宝が全て焼失し、寺は荒廃した。その後、江戸時代初期に一部復興されている。(フリー百科事典 Wikipediaより)



寺領への入り口に立つ寺号碑と立派な「下馬」の石碑。


「阿育王山」の山号が掲げられた山門、正面は清涼寺式釈迦如来像(石像)。


かつての石塔寺は七堂伽藍と八十余坊の末寺を有する寺院だったが、応仁の乱と織田信長の焼き討ちにより伽藍を焼失してしまった。その後、江戸時代に一部復興されて現在は山門と本堂(明治17年[1884])が建てられているのみとなっている。本堂には本尊である「聖観世音菩薩」が秘仏として安置されており、お前立ちとして「十一面観音立像」が安置されている。


拝観受付の横から続く158段の石段は一直線に上方へ向かっている。石段の左には奉納された石塔や石仏が並び、長い石段を登りきった先には宝塔山と呼ばれる山の頂の広場が広がっており、夥しい数の石塔・石仏が祀られている。写真左上は石段の途中から振り返り、下の方を眺めた様子。


長い石段を上り詰めると別世界が広がっていた。最初に視界に飛び込んできたのは、巨石を積み上げて造られた三重塔だ。「阿育王塔」と呼ばれる高さ7.45mに及ぶ飛鳥時代末期の建立と推測される日本最大・最古の石塔だ(国重文)。青い空に向けてすっくと立つ三重塔のまわりを小さな石の五輪塔や石仏が、境内を埋め尽くすかのようにとりまいている。


斜め西側から青空を背景に輝いて見える白い王塔を眺める(左)。王塔を東側から見ると塔身の初層は割れているのではなく、2枚の花崗岩で構成されている。第2層と3層は1石からなる。飛鳥の時代から、1,300年の時を越えてきたとは思えない、しっかりとした姿には驚くばかりだ(右)。


阿育王塔を取り囲むように、小さな石塔石仏が整然と並んでいる。石塔・石仏の数の多さに圧倒される。正確なことは分からないが、一帯には1万体以上の石塔・石仏が奉納されている。


阿育王塔の正面向かって右側に、140㎝前後のやゝ大きい石塔が3基立っている。これらの塔は、阿育王塔の発見に貢献した人びとの墓だという。宝塔(重要文化財)、正安4年(1302)に石工平景吉によって造られたという(左)。五輪塔(重要文化財)、嘉元2年(1304)[左]と貞和5年(1349)[右]の作と刻銘がある(右)。


宝塔山上に奉納された約3万にもおよぶ石仏群。五木寛之氏は「百寺巡礼」の中で、「まるで“石の海“だ。」と書かれているが、その数たるやまさしく“石の海”の様相である。鎌倉時代頃になると、石塔寺は阿育王塔の伝説によって霊験あらたかな地とされ、大寺院として栄えた。やがてその噂が広まって、人びとの信仰を集めるようになる。人びとは先祖の供養や自らの極楽往生を願って石塔石仏などを奉納するようになった。小さいながらもずしりと重いそれらを担いで急な山道を頂へと登り、王塔の立つ山へと運んだのだろう。


宝塔山には四国八十八ヵ所霊場が凝縮された、いわゆる“写し霊場”がある。山上一周約400mの細い山道の片側に、大きさ、形は様々な石仏が立ち並ぶ。


石仏に混じり間隔を空けて、八十八ヵ所それぞれの本尊と弘法大師の二尊を浮き彫りにした石仏が並ぶ。欠番もあるが、四国を巡拝したことと同じご利益を得られるという。


長い石段を下りると、よく手入れされた参道脇に秋の七草の萩と桔梗が咲いていた。夥しい数の石造物(石塔や石仏、石段など)ばかりを見てきた目には、萩のもの寂しい花色や風になびく細い枝の風情、桔梗の青紫色が新鮮に映り、秋の訪れを実感した。


「湖東の山中に佇む石塔寺 謎多い巨大な石造三重塔」のビデオ


滋賀県東近江市石塔町860 石塔寺のMAP