「コロナ禍」(コロナカ)による外出規制の前までは、退職後にバンコクで知り合った仲間5人と夜の街で酒食を楽しんでいたのですが、コロナ禍の今は、一ケ月に3回前後ですが、「ZOOM」による「ON-LINE飲み会」を楽しんでいます。

 

先月末の「ON-LINE飲み会」で何の前触れもなく僕に求められた話題は、「コロナ禍が契機となったアユタヤー王朝の遷都」と「アユタヤーの仏像はどのようにして造られたの?」でしたが、前者は前回ブログで投稿済みなので、本日は後者の話題について書くことにします。

 

仲間から送られてきた「ON-LINE飲み会」のスナップ写真

 

前者のアユタヤー王宮の遷都の話題は、現在の『コロナ禍』(コロナカ)から派生した話題だったのですが、後者の『仏像の造り方』の話題が出たのは、アユタヤー王宮遷都(1348年)までの3年間だけの仮宮殿となった遺跡内に整然と並ぶ座仏像の写真(下掲写真)を紹介したことから出た質問でした。

 

アユタヤー王朝の仮宮殿の遺跡地の回廊に並ぶ降魔仏像


とは言っても、仏像知識の無い僕にとっては難問です。何となくはぐらかして、古今の仏師が釈迦牟尼の仏像を造作する時の拠り所とした伝え聞く『三十二相・八十種好』(生前の釈迦牟尼の身体的特徴を記した仏典)の話題に振ろうとするのですが、五人の飲み仲間は、「それはそれ、これはこれ」と主張して許してくれません。

 

アユタヤー仮宮殿遺跡の降魔仏の表情

 

仏師・西村公朝氏の著作「仏像の再発見」を読んでいたので、伝統的な仏像の造り方として、「銅造」、「塑造」、「乾漆造」、「木造」の4種類があることは承知していました。

 

従って、アユタヤー王朝の遷都前の仮宮殿遺跡の回廊に整然と並ぶ降魔仏(後世に造られた金メッキ仏)は、「銅造」によって造られたと思う旨説明したのですが・・・確固たる自信がある訳ではありません。

 

アユタヤー王朝の仮宮殿遺跡の回廊に並ぶ座仏像

 

書籍で得た知識に過ぎませんが、「銅造」の製造過程を粗っぽく箇条書きにしてみました。

①木、竹、鉄心等で作られた仏像の骨組に土を盛って仏像の基礎となる「中型」(なかご)」を拵える。

②「中型」の上を蝋と土で覆って「外型」(そとご)を制作する。

③「外型」から熱を加えて蝋を溶かすと、「外型」と「中型」の間に空洞ができる。

④その空洞に溶かした銅を流し込む。

⑤銅が冷えてから「外型」を外し、仏像の表情や身体等の細部を仕上げる。

⑦表面をメッキ加工(鍍金)して仕上げる・・・と西村公朝氏の著作にあったように思います。

 

 アユタヤー仮宮殿遺跡で見かけた降魔仏三態

 

実は、アユタヤー王朝の仮宮殿の遺跡には、「銅造仏」以外の方法で造られたと思われる古い降魔仏三態(上掲写真)も遺っていました。この坐像仏は粘土で造形された「塑造仏」(そぞうぶつ)なのでしょうか?  

 

アユタヤー仮宮殿遺跡の壁の中に横たわる涅槃仏の小像

 

旧アユタヤ王宮遺跡の壁を仰ぎ見ると、横長の壁穴の中に、小さな涅槃仏(上掲写真)が安置されていました。この仏像は「木造」?それとも「塑像」(そぞう)でしょうか?

 

それとも 麻布や和紙に漆と木粉を練り合わせた材料を盛り上げて形作った乾漆造(かんしつぞう)なのでしょうか?これまた僕にはさっぱり分かりません。

 

アユタヤー仮宮殿遺跡の涅槃堂に横たわる涅槃像

 

アユタヤー仮宮殿遺跡の中では比較的大型の涅槃堂の中に横たわる涅槃仏(上掲写真)は、僕の最大のお気に入りなのですが・・・この涅槃仏は、煉瓦を骨材として積み上げてから粘土で造形した「乾漆造(かんしつぞう)なのでしょうか?・・・ウーン・・・やはり僕には分かりません。

 

なんとも締まりのない説明になってしまいましたが、PC画面の中の酔っぱらい5人は、分かっている筈もないのに肯いています。

 

次回の「ON-LINE飲み会」は、「7月19日(日)」の15時から19時までとなりました。今度はZOOMではなく、久しぶりにSKYPEでの「飲み会」となります。次回はもっと「飲み会」に相応しいテーマにして欲しいものです。