『比島戦跡旅行記 神風特攻第1号・関行男大尉-3』(12月24日付け)の続きです。

 

❏1944年10月25日正午頃

10月25日午前10時45分、レイテ東沖合で、米国第7艦隊所属の護衛空母群の4隻に体当たり攻撃を行い、撃沈1隻、1隻大破、2隻小破の戦果をあげて散華した神風特攻・関行男大尉を含む敷島隊5機の戦果を見届けた直掩隊の西澤廣義飛曹長、本田慎吾上飛曹、馬場良治飛長の三機は、最寄りのセブ海軍飛行場へ立ち寄り、敷島隊の壮烈な戦果をセブ飛行場の中島飛行隊長(少佐)に報告しています。

 

 

セブ飛行場の滑走路跡地 (現Cebu I.T. park)

 

特攻隊を掩護する直掩機の役割は、①特攻機に向けられる対空砲の弾除けになること、②敵迎撃敵戦闘機を撃墜して味方の特攻機を目標に誘導すること、③目撃した特攻機の戦果を基地に帰投して正確に報告することでした。 

 

因みに、直掩隊として出撃した管川操作飛長は、護衛空母に突っ込む関行男大尉と谷暢夫一飛曹の弾除けとなって戦死しています。 また、直掩機のリーダーを担った西澤廣義飛曹長は、体当たりする特攻機を阻止しようとする敵戦闘機二機を撃墜し、敷島隊の特攻戦果を最大限にアシストしています。

 

 

直掩隊・西澤飛曹長(撃墜王第2位)  中島正少佐(セブ飛行隊長)

 

セブ飛行隊長の中島少佐への報告を終えた西澤飛曹長を含む三人の直掩隊は、翌日の26日、中島少佐に搭乗機の零戦を没収され、武装していない通常輸送機に乗せられてマバラカット基地に送り返される途上、敵グラマン戦闘機に襲撃されて全員が敢え無く戦死しています。

 

日本陸海軍の撃墜王第二位の戦闘機乗りだった西澤廣義飛曹長は、予科練や学徒出身の特攻搭乗員を消耗品として見做す中島少佐(海軍兵学校出身)の愚かな対応によって、その命を絶たれたようなものです。当時のマバラカットやセブ飛行場の特攻員の間では、軍令部で特攻の旗振りをしていた源田實大佐の言いなりだった中島少佐を『源田の腰巾着』と呼んで蔑み忌避する動きがあったようです。

 

後日、源田實大佐が軍令部から松山基地の第343航空隊(剣部隊)の航空司令に転任した時、源田司令官は、腹心の中島少佐を、セブ島第201航空隊から松山343航空隊の副長として抜擢しています。 

 

松山第303航空隊掩体壕

 

セブ島第201航空隊は、中島少佐の転属を手を叩いて喜んだそうですが、松山第343航空隊の搭乗員は、特攻一辺倒の中島少佐に総スカンを喰らわせた話が残っています。

 

その中でも、菅野直大尉(特攻死した関行男大尉と海軍兵学校同期生)は、中島少佐の理不尽且つ暴虐的な特攻要請に対して、誰憚ること無く、次のように反抗したと伝わっています。

 

『自分の隊から特攻隊員は絶対に出さない』

『体当たりなんかしなくても、爆弾を命中させる実力がある』

『生きていれば、何回でも敵を攻撃出来るではないか』

『一回の体当たりで、鍛えた戦力を一瞬にして失うのは納得できない』

 

更に、菅野直大尉が『特攻・忠勇隊』の直掩を務めて帰投し、忠勇隊の特攻戦果を中島少佐に報告した時の話があります。忠勇隊に平然と特攻命令を下す中島少佐の口から飛び出したのは、必死必中の特攻隊員と命懸けで掩護する直掩隊員を冒涜し侮辱するものでした。

 

『戦果が大きすぎる。何か勘違いしていないか』

『レイテで本当に体当たりをしたのか、本当に目撃したのか』

 

落下傘を装備せずに必死必中の体当入りをする特攻機を掩護する時、自らも落下傘無しで直掩の役割を果たすことを信条にしていた菅野大尉は、中島少佐が口走った心無い発言に悲憤慷慨。拳銃を引き抜いて床に向けて実弾五発を連射したと言うのです。その菅野大尉も、1945年の屋久島沖の空中戦で戦死しています。 

 

  

          菅野直大尉            志賀淑雄少佐(写真は大尉時代)

 

松山第343航空隊には、菅野大尉以外にも、志賀淑雄少佐(海兵62期)の如く、『自分が征かずに、予科練出身や予備学生出身だけに必死必中の特攻に行けと言うのは、命令の域を越えている。どうしても特攻に行けというのならば、参謀、長官、司令レベルが自ら先に飛ぶべきだ』と主張する人物もいました。

 

しかし、此のような具申に耳を傾ける上層部がいる筈もありません。 源田大佐や中島少佐のような特攻員に対する正気を失ったとも言える非人間的な対応は、特攻隊員達が当初抱いていた厳粛な士気を次第に蝕んでいくことになります。

 

中島少佐を松山第343航空隊へ引っ張った源田大佐は、第343航空隊搭乗員の有り得ない抵抗に直面して周章狼狽。 自らの保身を慮って、中島少佐を、人間ミサイルとも言うべき特攻兵器『桜花』の主力基地になっていた石川県小松市の第721航空隊(通称:神雷隊)へ横滑りさせます。

 

人間ミサイル『桜花』を抱えて飛ぶ母機の一式陸攻

 

ところが、その神雷隊に於いても、中島少佐は、耳学問の急降下特攻一点張りの主張を行い、零戦の直進降下に適した20度から30度の緩降下を是としていた搭乗員から蔑視されています。とは言っても、若い特攻隊員は、理不尽な上官に逆らうことも出来ず、祖国愛と家族や恋人への懐いを胸に抱いて任務に殉じるしかありません。

 

多くの予科練や予備学生出身の搭乗員を消耗品の如く扱った特攻礼賛者の海軍上層部の多くは、太平洋戦争(大東亜戦争)を無事に生き延びています。

 

松山第343航空司令官として終戦を迎えた源田實大佐は、戦後創立された航空自衛隊の第三代航空幕僚長となり、退官後は参議院議員(四期24年)を経て84歳で病死。中島正少佐(最終階級は大佐)も航空自衛隊の空将補まで出世して86歳で没しています。特攻で戦死した若き搭乗員の約4倍の人生を全うしたのですから、それに相当する供養を為されたに違いないと思いたいですね。

 

話が大きく逸れてしまいました。1944年10月25日12時5分の時点に戻りましょう。

 

西澤廣義飛曹長から、関行男大尉を含む神風特攻隊・敷島隊5機の壮烈な戦果報告を受けたセブ島第201航空隊の中島少佐は、直ちに第二航艦司令長官の大西中将に向けて無線電信を発信。大西中将は、日本の軍令部、海軍省、連合艦隊などの部署に対して、神風特別攻撃隊の敷島隊が成し遂げた最初の壮烈な戦果を打電します。

 

1944年10月28日 海軍省によるラジオ特別放送

大西中将からの戦果報告を受けた海軍省は、1944年10月28日にラジオ特別放送を行い、翌日の新聞記事で、敵護衛空母に体当たり攻撃を行った敷島隊指揮官の関行男大尉を『特攻第1号』」として大々的に公表します。

 

1944年10月29日の東京朝日新聞の一面トップ記事

 

連合艦隊司令長官・豊田副武大将は、1944年10月28日付けでもって、敷島隊五人の戦果を、忠烈万世に燦たる殊勲として全軍に布告。関行男大尉は2階級特進して中佐、部下の四人もそれぞれ2階級特進の栄誉を受け、銀翼の五軍神として奉られます。

 

 

銀翼の神々となった敷島隊の5名

 

 

神風特攻隊の第一号として壮烈な戦功をあげた敷島隊の五名は、『軍神』として世間から賞賛されることになります。 軍神となった軍人の門前には『軍神の家』と記された標識が建てられ、軍神を育んだ環境を知るために『軍神の実家への表敬訪問』が勧奨されたというのですから驚きです。(下掲写真)

 

関行男大尉の家を表敬する人

 

しかし、熱しやすく冷めやすいのは、古今東西の人間の性のようです。日本には『人の噂も75日』、英語國にも A wonder lasts but nine days. (驚きは7日しか続かない)と云う諺があります。

 

具体的な日数の長短は別として、日本にも環境や動向の変化によって、一斉に『左向け左』、『右向け右』と豹変する傾向があります。戦中の『一億総特攻』も、敗戦後は一転して『一億総懺悔』に変わってしまいました。

 

軍国主義昂揚に利用された『軍神』の家族は、敗戦後の反軍国主義の高まりの中で、一転して國賊呼ばわりされて日陰の存在になってしまいます。 『軍神の母』だったサカエさんは、豹変した国民から『戦争協力者』として石を投げられる立場に堕ちてしまったのです。

 

生活に困窮したサカエさんは、草餅の行商をするもままならず、住む家として廃屋兵舎の使用を役所に嘆願しても無視され、最終的に、西条の石槌中学校の用務員として住み込まれるのですが・・・心労が重なったからでしょうか、1953年11月9日、石槌中学校の用務員室で倒れられ、『せめて行男のお墓を・・・・』と言い残されて亡くなりました。享年57歳でした。

 

関行男大尉が戦死してから31年後の1975年、愛媛県西条市・楢本神社境内に「関行男慰霊之碑」が建立されています。冷たく掌を返した戦後の風潮は、神風特攻第1号の軍神・関行男大尉の慰霊碑すらも許さなかった・・・ということなのでしょうか。

 

次回は、軍神第一号の関行男大尉(没後2階級特進して中佐)よりも、早く出撃して体当り攻撃を敢行した神風特攻隊員が複数人数いた事実と背景について綴ってみたいと思います。