昨年の12月初旬から下旬にかけて、バンコクの友人K氏と二人で、K氏の父君(海軍航空整備兵)と陸軍暗号通信兵だった大岡昇平氏(作家)が米軍と戦われたフィリピンのミンドロ島と俘虜として収容されたレイテ島の戦跡を巡り歩きました。その時の思い出は、今年前半に数回に分けて既に投稿済です。

 

本日から、K氏の父君の戦跡を巡る合間に訪れた、日米軍の歴史的激戦地について書き残して置くことにします。先ずは、日本軍の猛攻撃を受けた米軍極東軍南西総司令官のダグラス・マッカーサーが、豪州へと敵前逃亡することになったバターン半島とコレヒドール島の戦いから始めることにします。

 

 

日米軍の戦場となったバターン半島とマニラ湾口のコレヒドール島

 

コレヒドール島は、ルソン島の首都マニラから西方へ洋上約48km離れたマニラ湾口に位置する小島です。北方6kmには、コレヒドール島の戦いの後に発生した『バターン死の行進』で有名なバターン半島があります。南西沖に目を転じると、陸軍中野学校二俣分校出身の小野田寛郎陸軍情報将校(少尉)が、戦後29年間も隠れ住んで残置諜報活動を行っていたルバング島を望むことが出来ます。

 

 

マニラ埠頭から西方へ約48km、バターン半島から6kmの洋上に浮かぶ小島

 

コレヒドール島の大きさは、中国と領有権で揉めている尖閣諸島の約1.3倍。灯台のある島中央の最頂部の海抜は僅か121m。上空から見るとオタマジャクシの形に似た小島です。現在は、約400人が住む戦跡観光に特化した島になっています。

 

 

コレヒドール島とマニラ埠頭を片道1時間半で結ぶフェリー

 

ホテルをタクシーで早朝に出発。マニラ湾岸の Seaside Ferry Terminal  を7時45分に出港するコレヒドール島行の観光フェリーに乗船。約1時間半の短い船旅でコレヒドール島に到着です。

 

 

観光客を待ち受ける日野トラックを改造したコレヒドール島内の観光バス

 

観光フェリーを下船すると、英語、中国語、タガログ語によってガイドする観光バスが待っています。日本人は僕と友人K氏の二人だけなので、英語ガイドのバスに乗り込むしかありません。観光バスとは言っても、日本の日野トラックのアンダーフレームとエンジンだけを利用した簡易乗り物で、開閉扉も窓ガラスも取り除いた風通し抜群の熱帯仕様車です。

 

 

米国の植民地時代の島内移動の軌道電車

 

観光バスのデザインの原型は、島内の戦争記念館に掲示されていた写真を見て分ったのですが、米軍がコレヒドール島を戦時要塞として使用していた植民地当時の路面電車を復元したものでした。

 

乗り込んだ観光バスのガイドは、達者な英語を話すフィリピンの中年女性です。英語圏の乗客の中に混じった日本人2名に気付いた彼女は、『今日は日本人が乗車しているので、日本の悪口はチョットばかり言い難いわね』と冗談を飛ばしながらも、遠慮なく『バンザイ』(万歳)、『ハラキリ』(腹切り)、『カミカゼ』(神風)、『シンヨウ』(震洋)の英語訛りの日本語を連発し、我らの顔色をうかがうのには閉口しました。

 

 

歯切れのよい分かり易い英語を話すフィリピンの中年女性ガイド

 

彼女がガイド口調の言い回しで、『日本軍は、前方6㎞先に見えるバターン半島から攻めて来ました・・・・云々』

と戦闘の経緯に触れ始めると、僕の脳裏に、森山良子さんの『さとうきび畑』のメロディーが朧げに浮かび、やるせない錯覚の世界へと誘引されるような・・・・なんとも複雑な心持になってしまいます。

 

 ♪ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は ざわわ ざわわ ざわわ 風が通り抜けるだけ♪

♪むかし 海の向こうから いくさがやってきた 夏の陽ざしの中で・・・・♪

 

此処コレヒドール島での“海の向こう”とは、6キロ先のバターン半島のことになります。

 

1941年12月8日のほゞ同時刻、日本軍によるハワイ真珠湾攻撃、タイ湾に面するマレー半島強襲上陸、そしてフィリピン・ルソン島のクラーク米軍飛行場への空襲がなされ、あの忌まわしい太平洋戦争の火蓋が切って落とされました。バターン半島で迎え撃つ米軍指揮官は D・マッカーサー陸軍大将。攻める日本軍指揮官は、英国駐在武官の経験を持つ陸軍きっての英語使いと言われた本間陸軍中将です。

 

 

極東軍南西総司令官 マッカーサー大将     南方軍第14軍司令官 本間雅晴中将

 

怒涛の如く首都マニラに押し寄せる本間中将指揮下の南方軍第14軍の攻撃に抗しきれないと思った極東軍南西総司令官のD・マッカーサー大将は、首都マニラを戦場としないために、マニラ市街全域にハーグ陸戦条約に基づく無防備都市宣言(Open CIty)を発令した後に、マニラ北西のバターン半島へ撤退して立て篭もります。

 

首都マニラに進軍する日本南方軍第48師団の第四と第七軽戦車隊

 

無防備都市宣言を発して米軍不在となった首都マニラを、一発の弾丸も使用することなく統治下に治めた日本軍は、間髪を容れず陸路経由でバターン半島に立て籠もる米軍の殲滅作戦に着手します 

 

首都マニラからバターン半島南端までの陸路は約160kmの道程

 

バターン半島に立て籠もる米軍と比軍の連合軍は150,000人。連合軍の半数以上は、ケソン大統領指揮下のフィリピン独立準備政府の兵士だったようです。連合軍の戦力を侮った日本軍は、南方軍65師団の主力7,500人だけで1ヶ月程度で陥落させる予定でしたが、連合軍15万人の抵抗に遭って大苦戦に陥ります。

 

第一次バターン半島の戦闘(1942年1月16日-同年2月8日)

 米軍と比軍陣地を攻撃する日本軍第65師団の主力

 

連合軍の予想外の抵抗により、自軍の戦闘能力を大きく喪失した本間司令官は、止む無く攻撃を一旦中止。台湾航空艦隊の空からの支援と中支派遣軍から歩兵と砲兵の増援を受けて反撃を再開。バターン半島攻撃開始から60日を費やして漸く連合軍を降伏に追い込みます。

 

第二次バターン半島の戦闘で勝利して萬歳を叫ぶ日本軍 (1942・11・Mar)

僕も眼鏡使用ですが、眼鏡をして戦闘するのは・・・大変だったでしょうね。

 

1942年1月16日から翌月の2月8日のバターン半島の第一次攻撃結果は日本軍の大敗北。態勢を立て直して挑んだ第二次攻撃によって、最初の攻撃から60日目に辛勝しています。日本軍の戦死者は2,955人、戦傷者数は4,049人、戦死戦傷率93%という・・・途轍もなく大きい犠牲を伴なった苦い勝利でした。

 

降伏したバターン半島司令官 Edward Postell King Jr.,少将(奥中央)

 

第一次バターン半島の戦闘では、日本を壊滅状態に追い込んだ米軍司令官の Edward Postell King Jr.,少将ですが、第二次バターン半島の戦闘では、態勢回復した日本軍に対して健闘およばず、約7万人の兵士を引き連れて日本の軍門に降ります。

 

日本軍の俘虜となった Edward Postell King r.,少将は、中国大陸の俘虜収容所へ送られますが、終戦後に釈放されて米国に生還しています。バターン半島で俘虜となった部下の兵士の中には、その後に起こった“バターン半島死の行進”で犠牲になった人も少なからずいたようです。

 

バターン半島の前方6km先に浮かぶコレヒドール島

 

バターン半島の司令官 Edward Postell King Jr.,少将の降伏によって、行き場を失ったマッカーサー総司令官は、米軍兵士10,000人、比軍兵士5,000人と共に、バターン半島の沖合6kmに浮かぶ57門の大砲を構える要塞のコレヒドール島に逃走して籠城します。

 

バターン半島から逃れたマッカーサー大将が上陸したコレヒドール島の桟橋

 

マッカーサーがバターン半島から這々の体で逃れて上陸した此の桟橋 Lorcha Dock-Coregidor が、数日後に、不名誉な敵前逃亡の桟橋 MacArthur's Departure Point for Australia になるとは・・・・誰が想像したでしょうか。

 

日本軍は、マッカーサーの立て籠もる僅か6km先のコレヒドール島に照準を合わせた100門の砲台をバターン半島南端に設置。砲弾を雨霰(あめあられ)と打ち込んでマッカーサ大将とケソン大統領を窮地に陥れます。このまま推移すれば、米国の総司令官と比国の大統領が日本軍の俘虜になる不名誉極まりない事態となる恐れがあり、遂に米国のルーズベルト大統領が動きます。

 

次回に続きます。