ここ数日問題になっている、このタイトルの件。当事者としてはやはり見過ごせない問題ですので、僕なりの見解と考察をしてみたいと思います。

自民党の杉田水脈衆議院議員が寄稿した、月刊誌「新潮45」2018年8月号 の中のコラム 『「LGBT」支援は度が過ぎる 』の内容が差別的だとして問題になっています。

 


この方の主張については、東京・渋谷区の「同性パートナーシップ条例」が施行された後の2015年6月に、保守系のインターネットチャンネル「チャンネル桜」でほぼ同様の発言をしていたのを観ていたので、個人的にはさほど驚きはしなかったのですが…(下記のYouTube動画「杉田水脈、LGBT支援論者の狙いは何?[桜H27/6/5]」)。

 

5:20過ぎからLGBT問題の話が始まり、8:40過ぎには「生産性がない同性愛の人達」発言が出てます。
 

 

この時は“前”衆議院議員(次世代の党より出馬)で落選中の身と言うこともあり、あまり大きく取り上げられなかったのかと推察しますが、今回は自民党の現役議員ということで問題視され、そして炎上するところとなっています。

 

今回一番の問題となっているのは、このくだり。

 

「彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がないのです」

 

各ニュースなどではこの部分が短縮されたタイトルになって目下拡散中です。

 

そこで、僕も「新潮45」の杉田議員の記事を読んでから、彼女の主張に対して細かく考察しようと思ったのですが、残念ながらこの雑誌、電子書籍化されていませんでした。そこで、現在いろいろな媒体で引用のかたちで公開されている部分をお借りして、考察を加えていこうと思います。

 

 

まず、やはり大きな問題なのは「生産性」という言葉。

例えば、子育て支援や子供ができないカップルへの不妊治療に税金を使うというのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。しかし、LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女たちは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。にもかかわらず、行政がLGBTに関する条例や要項を発表するたびにもてはやすマスコミがいるから、政治家が人気とり政策になると勘違いしてしまうのです。

杉田議員が主張する論理は、はっきりしています。子供を作る、子孫を残す、人口を維持する、といった役割を「生産性」と定義し、その役割を担わないLGBTカップルなのだから行政がケアする必要がない、というもの。

 

人間も生き物である以上、他の動物と同様に種をつなぎ、新たな命を育むという「生産性」が、生き物としての最重要な営みのひとつであることに異論ははさみません。

 

かつて「(女性は子供を)産む機械、装置」と発言して問題化して辞任した厚生労働大臣がおりましたが、今回の「LGBT=生産性なし」発言は、人間を“モノ扱い”するという意味で、同様の悪質な言動であると断じなければなりません。

 

ただ、僕は「生産性」という言葉を執拗にあげつらって批判を浴びせようとは思いません。それをしてしまうと、その裏に潜む深刻な問題を見落としてしまうかもしれないからです。

子育て支援や少子化対策、更には婚活支援や不妊治療サポート等といった政策に対して「反対」の立場の国民はかなりの少数派だと思われますが、これはLGBT当事者であっても同様の傾向であると考えられます。その意味で、少数派であるLGBT当事者が、多数派の非当事者の直面する課題を飛び越えて、「同性パートナーシップ条例」制定などの環境整備を“優先的に”取り組んで欲しいと権利主張をしている訳ではないことも、お解りいただけるでしょう。

 

また、子供を作る「生産性」とは違いますが、労働する、納税するといった「生産」的社会責任をLGBTも果たしています。我々も等しく納税する国民の一部なのですから、その一環として当事者として必要とされる行政サービスや法整備の主張を行うことは、至極当然と言えます。LGBTは単に権利だけを主張しているのではなく、義務も果たしているのです。

 

ただ、杉田議員同様、保守系の政治家や学者などの中には、子供を作る、子孫を残す、“標準的な”家族を形成する、などといった事柄を社会の第一義的役割と捉え、そのために結婚制度がある、というような前近代的な考え方の持ち主も沢山おられます。が、既にそうした古い考えを改めて、時代にマッチした少子化対策や人口減少対策に取り組んで、一定の成果を上げつつある西ヨーロッパ社会に住んでいる者としては、歯がゆい思いにもなります。

 

LGBTの差別解消、および権利拡大=少子化、人口減の助長、などというバカげた、何の根拠も立証もない論理を振りかざして国家運営している先進諸国は、もはや日本以外ほぼ無いと言ってもいいでしょう。

 

この寄稿文には他にも問題箇所が沢山あります。

しかし、LGBTだからといって、実際そんなに差別されているものでしょうか。もし自分の男友達がゲイだったり、女友達がレズビアンだったりしても、私自身は気にせず付き合えます。

まず、このような「生産性がない同性愛の人々」という差別的(彼女はよく「差別ではなく区別」という言葉を使いますが)な発言をする人が、ゲイやレズビアンの友達が周りに居て気にせず付き合えるのでしょうか?

僕の周りの友人・知人でも彼女ほどではないものの、恐らく僕がゲイであることには「気にせず」付き合ってくれているものの、ゲイやLGBT全般のトピックには触れたくなさそうな空気を感じることはあります。それは「差別」という強いものではないですが、「タブー視」「無視」に近い言葉で言い換えることは出来ますし、ある種の「疎外感」を与えることでもあります。

そもそも日本には、同性愛の人たちに対して、「非国民だ!」という風潮はありません

イスラム諸国を中心とした宗教的な思想を背景とした差別や刑罰は日本にはありません。ただし、それをもって、そのレベルにまで至らない差別や偏見に晒されるている状況下にあるLGBT当事者がいることの認識はないのでしょうか?

「非国民」という最大級に侮蔑的な差別用語を用いずとも、「オカマ」(元々「男娼」を意味する言葉)や「オネエ」などといった単語を浴びせる風潮は結構見受けられるでしょう。その証拠に、これらの言葉に傷ついている、もしくはそう言われないように必死に異性愛者を装う隠れたゲイも大勢います。

リベラルなメディアは「生きづらさ」を社会制度のせいにして、その解消をうたいますが、そもそも世の中は生きづらく、理不尽なものです

「そもそも世の中は生きづらく、理不尽」のくだりは、似たようなことを僕も友人から言われたことがあります。大抵は「別にゲイ(LGBT)だけが悩みを抱えている訳でもあるまいし…」というフレーズと共に使用されます。しかしながら、だからこそ立場の異なる他者の「生きづらさ」を少しでも理解しようとし、社会制度を変えることによって解消できるものであれば、その解決する努力をする態度が尊いのではないでしょうか?

多様性を受けいれて、様々な性的指向も認めよということになると、同性婚の容認だけにとどまらず、例えば兄弟婚を認めろ、親子婚を認めろ、それどころかペット婚や、機械と結婚させろという声も出てくるかもしれません

兄妹婚や親子婚辺りはひょっとしたら何十年後には真剣な議題に上っている可能性もあるのかもしれませんが、同性婚に反対したいが為の、だいぶ無理なロジックを持ち出してきた印象は拭えません。実際、僕も先月同性婚をしたばかりですが、ワンちゃん、ネコちゃん命の友達(夫とは離婚したけれど…)の口から、愛のカタチの証明として結婚したいとは聞いたことがありません。

 

杉田議員のことを多少フォローすると、寄稿文の中にはまともな箇所も出てきます。

ここまで私もLGBTという表現を使ってきましたが、そもそもLGBTと一括りにすること自体がおかしいと思っています。T(トランスジェンダー)は「性同一性障害」なので、ここは分けて考えるべきです。

トランスジェンダーの人々が自らを性の問題を「障害」と捉えるかどうかは、こちらもデリケートなマターではありますが、確かに性自認や性的指向がはっきりとした段階では、LGBとTとが抱える問題はだいぶ違うことも多く、分けて考えることも合理的です。

 

ただし、その続きがいけません。

一方、LGBは、性的嗜好の話です。以前にも書いたことがありますが、私は中高一貫の女子高で、まわりに男性がいませんでした。女子高では、同級生や先輩といった女性が疑似恋愛の対象になります。ただ、それは一過性のもので、成長するにつれ、みんな男性と恋愛して、普通に結婚していきました。

LGBを「嗜」の文字を使った「性的嗜好」と定義していますが、これがそもそも全くの間違いです。LGB当事者が異性愛者と違うのは「性的指向」(ちなみに志すものでもないので「志向」も違います)の部分です(詳しくはこちらをご参照)。

 

確かに、女子校や男子校の別学の学校などでは杉田議員と同じような体験をする生徒も多いと思います。ただし、それが一過性の疑似恋愛ではなく、突き詰めた結果、その感情が永続的で自分がはっきりと同性愛(もしくは両性愛)である認識をするきっかけになる環境である可能性も非常に高いのです。

 

自らの体験談のみを例に挙げ、この独り善がりで客観性を欠くLGB私観がそもそもの問題です。

マスメディアが「多様性の時代だから、女性(男性)が女性(男性)を好きになっても当然」と報道することがいいことなのかどうか。普通に恋愛して結婚出来る人まで、「これ(同性愛)でいいんだ」と、不幸な人を増やすことにつながりかねません

ちなみに、僕自身の例で言えば、杉田議員の言う「普通」とは違って、これからの人生を一緒に歩んで行こうと思う男性と「普通」に結婚しましたが。まだ性的指向が不確定だった頃に、勢いで「普通」に恋愛して結婚していたら(可否で言ったら結婚出来たでしょう)、当時付き合っていた女性もろとも自らの手で不幸な人を増やす結果になっていたかもしれません。

 

マスメディアに限らず、学校という教育現場や家庭教育の場でも、同性愛(LGBT)の人々が存在することをタブー視なく語ることが出来たならば、それこそ悩みを抱える不幸な人を減らせるのでは?

「常識」や「普通であること」を見失っていく社会は、「秩序」がなくなり、いずれ崩壊していくことにもなりかねません。私は日本をそうした社会にしたくありません

人類の歴史に同性愛は常在であったことはそれこそ「常識」なのだから、その歴史を客観視し、教育の現場で教えることも是とするのが、歴史を重んじる保守政治家らしい態度ではないでしょうか?

更には、一度その「普通」という言葉を陳腐に多用するのは止めたらいかがでしょうか?「正常」「一般的」とこの人が伝えたい意味より、むしろ「並」というマイナスイメージに成り下がる印象です。間違いだらけの知識に貧相な想像力、稚拙なロジックと全てが「並」未満な政治家が、国家の品格や美しい日本語のレベル低下を招くような真似だけは国会議員としてお止め下さいませ。こうしたエセ保守が日本を崩壊させるのではないでしょうか?このように知識と教養のない国会議員がヘイト的な発言を繰り返し、それを許容するというのは、日本にとって国益を損なうことを意味していることなのかもしれません。

 

多様な価値観の声をすくい上げ、問題提起、解決に努め、国民を上手くまとめて統合することによって、「秩序」ある豊かで持続可能な国づくりを目指すことが、国民政党たる自由民主党の政治家としての貴方のお仕事ではありませんか?
 

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