北海道へのソ連軍進駐を阻んだ「占守島の戦い」は大きな意味があったのだ | 敬天愛人のブログ

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 ポツダム宣言を受託した3日後の昭和20年8月18日早暁午前1時頃、千島列島最東端の占守島にソ連軍が奇襲上陸する。

 無条件降伏により武装解除準備を始めていた守備隊は、この奇襲を受けると武装を整え直し、ソ連に対して自衛戦闘を開始した。

 占守島は千島列島最東端に位置する為に、陸軍第5方面軍が対アメリカ戦を予想して占守島・幌筵島の要塞化を進めていた。

 昭和20年になると本土決戦や北海道本島防衛で兵力が削がれたが、終戦時点でも陸軍最強部隊と称された第91師団(2個旅団基幹)などを擁していた。

 戦闘は日本軍の死傷者約600名、ソ連軍の死傷者約3000名に及び、日本軍の圧倒的勝利の中で、3日後の21日に武装解除に応じ戦闘が終結した。

 日本軍が武装解除を終えたのは、その3日後の24日だった。

 この「占守島の戦い」により、ソ連軍の千島列島の占領は遅滞し、北海道への上陸が困難となった。

 占守島での戦いの間に米軍の北海道進駐が完了。米軍進駐によって、ドイツや朝鮮半島の様な北海道の分割統治は避けられた。

 そういう意味でも、ソ連軍の北海道進駐を阻んだ「占守島の戦い」とは大きな意義があった戦いだったのだ。

 この戦いの後、占守島で自衛戦闘を戦った日本軍の兵士のみならず、中千島や南千島に駐留していた兵士全てがシベリアに強制連行されることとなった。

 理不尽な終戦後の戦争を勇敢に戦った兵士達は、こうした仕打ちさえも無条件降伏のうちだと信じて、飢えも寒さも、その結果としての知れ切った死すらも潔く受容した。

 ソ連はその他の地域からも軍人、軍属、一般人80万人以上をシベリアへ強制連行し不当に抑留。実にこの半数以上の同胞が酷寒の地で凍死、餓死で亡くなられている。

 シベリヤに抑留され、極寒の地で亡くなられた方も数え切れず、抑留された日本人同胞は、国内では一般には約60万人と言われている。

 だが、この数字は軍属だけの数字で、民間人を含めると更に多く、ロシアの資料では約70万人、米国の資料では約90万人とされている。

 果たしてシベリア抑留で亡くなられた日本人同胞はどれ程に上るのか、平和を考える上でも正式な被害者数を調査公表しなくてはならない。

 東京大空襲や広島・長崎への原爆投下を実行したアメリカもそうだが、非戦闘員の殺戮も、シベリアへの強制連行も全て国際法違反であり、戦勝国と雖もこうした人道に悖る行為を正当化する権利が在るとは思えない。

 米国や旧ソ連こそ「平和に対する罪」や「人道に対する罪」で断罪されるべきで、我が国だけが裁かれる理由は無い。

 況してや終戦間際に日ソ不可侵条約を蹂躙し、一方的に宣戦布告し戦闘に加わったソ連の蛮行は断じて赦されるものではない。

 このソ連の参戦は、「ヤルタ秘密協定」での米英との約束の実行だが、「ヤルタ協定」こそが国際法的にも意味を成さないものだ。

 1945年(昭和20年)2月、ルーズベルト、スターリン、チャーチルはクリミア諸島のヤルタで会談を行った。

 ルーズベルトは千島列島をソ連に引き渡すことを条件に、日ソ中立条約の一方的破棄を進言、ソ連の対日参戦を促した。

 ヤルタ協定では、「ソ連が日本との戦争に参戦すること」、「南樺太をソ連に返還すること」、「千島列島をソ連に引き渡すこと」などが決められた。


 これに従ってドイツが無条件降伏した約3ヵ月後の昭和20年8月9日、ソ連は「日ソ不可侵条約」を一方的に破棄し参戦したのだった。

 歴史を紐解く上でも、或いはソ連の北方領土への侵略と不当性を知る上でも、ソ連参戦を要求した米英主導のヤルタ秘密協定の内容を暴かなければならない。

 その不当性が明らかになれば、我が国の「悪玉論」も根底から覆ることとなろう。

 だが、所詮はこうした闇が暴かれることは無いし、秘密協定が行われたヤルタはロシアの軍事侵攻によって占領されたのは記憶に新しい。

 8月とは正に悲憤慟哭、民族痛恨の月でもある。 

 【八月なる嵐はやみて夏の夜の 空に望月のかがやきにけり(昭和天皇御製)】

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