無は、その昔、无とも書かれ、

 

何故か、今の『天』とそっくりな形です。

 

 

 

実は、そうなのです。

 

我々の思っている、無とは、天を表しており、

 

無意識

無理

無性

無情

無常

無数

 

と『無』がつく漢字がたくさんあるが、良くその意味を考えると、非常に納得できるものである。

 

無意識=意識がない=天の意識(才がなくとも、やってしまうこと)

無理=理性が働かない、理解出来ないこと=理にかなわなく、天任せの状態

無性=性に合わない=自分には理解できないけど、天の作用

無情=情がない=人間の情ではないこと=天の情け

無常=常がない様子=天のルールでは、同じ状態というものはなく、常に廻りに回っていること

 

 

と理解できる。

 

 

 

まず、無意識というものを説明すると理解しやすい。

 

イメージや、アイディアが降って湧いてくるものは、あなたの理性とかけ離れているものであり、

あなたの未来のスピリットと、それと交わって『無=天』の見解が混じり合わさって、それが何か分からずとも、自分ではないことだけが確かです。

『無』道に入るための、手引きは必要な場合があります。普段から勘が良かったり、していても、見えないものの存在自体を否定している場合がありますので、そこは、文献などの本から入る方が多いでしょう。

 

宗教的なものの聖書やコーランの場合も大いにあります。

 

 

でも、自己理解の域に達した時に、『自由』になるんです。


『自』から解き放たれた、『由』になれるんです。『由』という字は偉大です。

田んぼから、線が上に出てるんです。



宇宙の方が実は枠があるんです。だって、人間界から見た宇宙は、ウ冠付きですから。

宇宙の枠からも超え、ウ冠、要するに地球外になり、ただ一人で天と繋がれること、

于、由、

こそが叡智の秘訣です。

 

 

 

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于という漢字を良くみてください。

 

人のような形ですね。

 

ただ、『人』という形は、頭がない。

 

『于』という感じは、足が一本になっています。

 

 

『人』の状態の人間は、動いている、作業している、のならば、

 

『于』というのは、足を二本くっ付けて、まっすぐ立っていて、横に手を伸ばし、上を向いています。

 

 

それはどういう意味なのかというと、

 

現代で言えば、『瞑想』状態、、、

 

人間が、天とつながっている、その状態です。

 

 

手は横に伸ばし、地平線を意味し、

 

そして、頭は上を向き、天からの意識、叡知をいただいているのです。

 

 

 

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そして、『由』ですが、

 

意味でいうと、訳、物事の起点、いわれ、とあります。

 

 

わかりましたね。

 

 

『于』、『由』とは、人間の宇宙からの叡知、そのもののことになります。

 

 

『由』と、『因』、『縁』は、『ヨシ』とも読み、全部関係性があるのですが、

 

ゆかり

 

の意味があります。

 

 

天のゆかりで人間ありき、

我、人間ゆえ、頭ありき、

我、頭無くしては、生きてはいけぬが、

頭外すことで、理解ありき。

 

人間の知り得る、ことは、

天の知り得ることよりも遥かに小さく、

僅かながらも、無知なことも知らず、

この先の叡知すらも閉ざしてしまう。

 

 

意識を手放さなければ、何もできずに、

我ら人間は無くなってしまう。

 

無くならないためにも、無(无)になり、

 

最終的には、無(无)を愛し、夢(ム)に変え、無(无)に帰るのだ。

 

 

 

無数=数えきれないほど多いこと=天の数ほど多い

 

当たり前のことですが、、、そういうことです。

 

 

昔、昔、その昔に、ムー大陸というものがあったのは、ご存知ですか?

 

無の発音と似ているところが、なお面白いですね。

 

 

天の叡知は、ムーにありき、

 

そして、知り得る(しりうる)ことは、

 

シリウ(す)にヒントあるのかもしれませんね。

 

 

私としては、ちょっと頭が痛くなる話題ですが、とっても面白いと思います。

 

 

皆さんも、是非このような力を手に入れてくださいね。