保科正之像

 

お静の方像

 

保科正之、生母お静の方案内石碑

※高遠が誇る名君「保科正之公、生母お静の方像」と案内石碑…保科正之は、2代将軍徳川秀忠の三男になりますポーン

 

三男だったら「保科」じゃなくて「徳川」だろと思われるかもしれませんが、これには「深~い理由」がありまして、詳しくは保科正之の墓所を訪れる機会があると思いますので、その際に説明させていただきます笑い泣き

 

保科正之は「高遠藩主」として、領民に「善政」を施し、今でも高遠町の「名君」です真顔

 

お静の方は、「秀忠の事実上の側室」ですが、生涯正式な「側室」と認められていません。


また、これにも「深~い理由」があります笑い泣き

 

お静の方の生涯につきましても、保科正之の生涯と合わせて、説明させていただきます。

 

お静の方は、高遠で生涯を終えており、秀忠死去後は落飾して「浄光院」という尼さんになりました真顔

 

正之公の「生母」として高遠領民から、大変尊敬されていたようです。

 

案内石碑の左手に見える建物は、復元されている「絵島囲み屋敷」がある「高遠町歴史博物館」ですデレデレ

 

 

 

 

高遠城1️⃣  100名城No.30

 

 

高遠城には、今回初めて行きました。

 

高遠城は、山城だと当初思っていましたが、平山城に属します。

 

高遠城は、「高遠城址公園さくらまつり」が毎年3月末頃の咲き始めから4月中旬〜下旬頃まで行われます。

 

5分咲きの4月初旬、満開の4月中旬には、多くの観光客で賑わいます。

 

高遠城の建物は、明治期に取り壊されましたが、土塁、空堀の遺構がほぼ完存する城で、江戸時代に大改修されているものの、縄張りはほぼ踏襲されており、武田時代(戦国期)の甲州流築城術を知ることができます😃

 

 

 

高遠城入口

※「国指定史跡高遠城」入口…花見シーズンに開催される「高遠さくらまつり」時には、入場料がかかります真顔

 

シーズン以外は入場料はかかりませんゲロー

 

 

 

  高遠城 日本100名城 No.30

 

高遠城(高遠城址公園、新城藤原神社)は、現在本丸には、江戸期に創建された「新城藤原神社」が建っています⛩️

 

高遠城には、高遠町歴史博物館駐車場があります(無料)🚗

 

高遠城入城料は基本無料ですが、「高遠城址公園さくらまつり」期間中(開花宣言翌日〜散り終わり)は入城料が、発生します。

 

駐車場に関しても、多くの観光客で賑わうため、大規模な規制がかかり、有料となります(詳しくは、伊那市ホームページに記載されています)。

 

僕は、城跡が見たかっただけなので、9月に行きました。

 

人はまばらでした。

 

では、高遠城が歩んだ歴史をご紹介させて頂きます🙇

 

 

法鍾院曲輪

※「国指定史跡高遠城」法鍾院曲輪案内板…この先に本丸入口に架かる「白兎橋」がありますウインク

 

三段に構築されている曲輪で、武田時代は。「法鍾院」という巨大寺院があり、防備の要となっていましたゲロー

 

武田滅亡時、寺院の建物の多くが焼失し、江戸時代に寺院は移転していますチーン

 

 

  ①高遠城の歴史〜戦国時代(武田家の支配〜滅亡)

 

 

高遠城は、中世より諏訪家一族である高遠氏の居城で、戦国時代になると、高遠頼継は武田晴信(信玄)の「諏訪侵攻」時に武田家と内通し、諏訪本家を攻め滅ぼしました。

 

高遠頼継は、高遠から西諏訪まで勢力を伸ばし、武田家に臣従します。

 

しかし、「戦国大名」として自立しようと目論んでいた頼継は、武田家に反旗を翻しましたが、あっさり敗北、再度武田家に臣従します。

 

晴信(信玄)は、頼継を信用しておらず、下伊那攻めのときに自害(暗殺説あり)させられ、ここに中世から続く名族「高遠氏」は滅亡、晴信(信玄)により、高遠家重臣保科正俊が高遠衆を率いることになりました。

 

この頃、信玄は山本勘助に命じ、高遠城を大改修、甲州流築城術を駆使した縄張りを築き、難攻不落の要塞にしました。

 

高遠城主には、信玄四男諏訪勝頼(のち武田勝頼)がなります。

 

信玄嫡男義信が自害したあと、諏訪勝頼は、後継者に指名されたため、城主は信玄弟逍遙軒、信玄死後は五男の仁科盛信が城主を務めました。

 

天正10年(1582)織田・徳川連合軍の「甲州征伐」が始まります。

 

木曽義昌の裏切りにより、信濃方面に織田信忠率いる3万の大軍がなだれ込み、信州の拠点城郭を守っていた武田逍遙軒などは、城を捨て逃亡しました。

 

唯一、高遠城を守っていた仁科盛信のみが高遠城に籠城、抵抗しますが、信忠軍5万の「力攻め」により、一日で陥落、仁科盛信以下3千の将兵の殆どが討ち死にしました。

 

 

 

武田家の信州支配の拠点だった、「難攻不落」高遠城の落城は、武田家に大きな打撃を与え、あるものは裏切り、戦わずして降伏、逃亡により、「戦国最強」を誇った武田家は、あっけなく「滅亡」します😭

 

 

 

白兎橋案内板

 

白兎橋

※「国指定史跡高遠城」白兎橋と案内板…南曲輪、本丸に繋がる巨大な橋ですニヤニヤ

 

江戸期は「木橋」だったようで、現在の白兎橋は明治時代に造られましたウインク

 

 

  ②高遠城の歴史〜天正壬午の乱〜保科正俊の奪還

 

 

武田家滅亡後、高遠は織田家臣毛利長秀(秀頼、尾張守護大名最後の当主斯波宗家(武衛家)斯波義銀の弟)の領地となります。

 

しかし、武田家滅亡の2か月後、「本能寺の変」が発生、動揺した長秀は居城飯田城を捨て、尾張へ逃亡しました。

 

その後、一旦織田家に服従、各地で潜伏していた「旧武田家臣」たちが蜂起した「天正壬午の乱」が発生、徳川家康の支援を受けた、旧武田家臣で、のち徳川家臣となる保科正俊、正直父子が、高遠城を奪還します。

 

保科正直は、家康の妹(異父妹多却姫)と結婚し、家康の義弟となり、家康関東移封に伴い関東へ行きます。

 

のち高遠城は、豊臣直轄地となりました。

 

空堀

 

空堀

※「国指定史跡高遠城」白兎橋から見た巨大な「空堀」…自然地形をある程度利用し、写真は草ぼうぼうで分かりにくいですが、白兎橋から見下ろすと、かなり広くて深い「空堀」ですムキー

 

 

  ③高遠城の歴史〜江戸時代Ⅰ〜高遠藩主「保科家」

 

 

関ヶ原合戦後、高遠城主には保科正直の嫡男正光が2万5千石の大名として、「高遠藩」初代藩主になります。

 

正光は、2代将軍秀忠から絶大な信頼を得ていたため、秀忠から「隠し子幸松」を託され、幸松の母、浄光院とともに幸松を保護し、「自分の子」として育てます。

 

のち、幸松は正式に保科家の養子となり、「保科正之」と名を改め2代藩主となり、秀忠や、兄である家光、忠長と対面しました✨

 

兄で3代将軍家光は、正之の有能さを気に入り、「将軍の弟」として、「保科家」を「別格の待遇」としました。

 

正之は、山形藩最上家の改易後、出羽山形藩の大名として、「3万石→20万石」の「破格の大幅加増」を受けます。

 

正之は、まさに「名君」の誉れ高く高遠領民に善政を敷いたと言われます。

 

のち、正之は、会津23万石に転封となり、将軍家光を助け幕末期に最後まで幕府に忠誠を尽くした一門の親藩「会津松平家」の藩祖となりました。

 

 

 

今でも高遠町は「保科正之公故郷の地」「出世の地」として、高遠町の「シンボル」となっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 長くなり申し訳ありません😓

 

続きます🙇

 

最後まで読んでいただきありがとうございます🙇

 

 

 

 

 

 


 

 

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