入江 大好きなカエル研究の道へ、日体大から東京農工大大学院合格 来春でボクシング引退
9/3(土) 5:11配信
スポニチアネックス

 ボクシングの東京五輪女子フェザー級金メダリスト、入江聖奈(21=日体大4年)が2日、東京農工大大学院に合格したことを明らかにした。来春の大学卒業を機に競技を引退し、大好きなカエルをはじめとする生態系や環境問題の研究をするために同大大学院農学府の修士課程を8月下旬に受験。この日、合格者が発表された。

 日体大体育学部在籍の入江にとって専門外の分野での受験。「不安だった」と明かしたが、ボクシングの練習と並行しての一日4時間の猛勉強が実った。「カエルの研究ができることを本当にうれしく思います。カエルに貢献できる人材になれるよう日々努力していきます!」とツイッターに記した。

 現役最後の大会は11月22~27日の全日本選手権(東京・墨田区総合体育館)となる見込み。昨年優勝したフェザー級で推薦出場資格を得ているが、異なる階級での挑戦も視野に入れている。「ボクシングも最後まで頑張ります」と“有終の美”を誓った。
きょうだい児だから選ばれなかった?精神疾患、自殺未遂、父との離婚。重度自閉症の兄だけ連れていった母への思い
8/30(火) 6:15配信

LITALICO発達ナビ

監修:三木崇弘

社会医療法人恵風会 高岡病院 児童精神科医

いつも家族の中心にいた母が別人になってしまったときのお話
私は15歳のときに、人生の大きな壁に遭遇することになりました。

当時45歳だった母が、統合失調症という精神疾患になったのです。

優しい笑顔が印象的だった母は、ある日から別人のように変わっていきました。


母は、感情鈍麻によってだんだんと喜怒哀楽の表情が乏しくなり、他者に共感することが減っていきました。
私が話しかけても反応が遅かったり、内容の理解ができず 、会話のキャッチボールが困難になりました。また、物事を進める意欲がなくなり日常生活を送ることが困難になりました。

そのうちに、妄想、幻覚(幻聴、幻視)に怯えたり、思考障害によって会話に一貫性がなくなるようになりました。

まるで別人のように変わってしまった母…。そのころ15歳だったまだ人生経験の乏しい私は、どのように母と向き合えばいいのか分からず、ただただ困惑しました。

その後、自殺未遂や危険を伴う行動など、いろいろありました。
その際に、母自らの強い意思により父と離婚することになりました。そして母は、重度の自閉スペクトラム症と知的障害がある7歳上の兄(当時22歳)だけを連れていくと決めて出ていくことになりました。

母が動けないので、母方の親戚が代わりに母と兄が暮らせるための手続きなどほとんどおこなってくれました。

残された私たち(父、姉、私)はというと、母が統合失調症の幻覚、妄想によって父と関わることを拒否してしまい、父の落ち込みも相当だったため、黙って見守るしかありませんでした。

思春期だった私が感じたこと。「手のかからない“きょうだい児”だったから、私は母に捨てられた」

母が重度障害のある兄を連れていったという事実は、当時思春期だった私にとってショックでした。

なぜなら、3人きょうだいのうちの、兄だけを連れていくということは、私たち(私、姉)からすると「きょうだい児である私(たち)を選ばない」という意味にもなるからです。
姉はもう成人していたので、落ち着いてはいましたが…。

私はそれまで、親から「我慢して」などと言われた記憶はありません(全くない訳ではないと思いますが、記憶にないので、私にとって悩むほどの内容ではなかったのだろうと思います)。
ですが、自分自身で選んでしていたこととして、「重度障害のある兄への対応が優先されるのは重々承知しているから、自分が我慢すれば良い」「母が助かるだろうから、私は手のかからない子でいよう」と思って自分なりに頑張ってきたつもりでした。

それなのに、母は離婚する際に私を連れていかない選択をしました。
私にとっては、「手のかからない子になった結果、重要な場面で母に捨てられた」と思えてなりませんでした。

それでも、今まで「手のかからない子」になる道を選んでいたので、今さら「親を困らせる子」にはなれませんでした。

母のことが大好きだっただけに、裏切られたような気がして、本当にショックでした。
「生きているだけで良かった」と割り切ることができれば良かったのですが…。

両親が離婚した2週間後に私は、公立高校の受験本番を迎えました。そのときの受験した高校には無事合格したのですが、あまりのショックからか受験当日の記憶が全くありません。

表面上は、母と穏やかな関係だけど、私自身の心の中は複雑…
母と父が離婚してからも私はときどき母と兄の住む家に遊びにいったり、泊まりにいったりしました。兄の様子を見て、一緒に住んでいたころと変わらない様子に安心したのを覚えています。
兄が通う作業所での仕事の様子や、家での様子についても母から聞くことができました。

自分の中でわだかまりがありつつも、母と私の関係は穏やかでした。
1年ほどすると、母に合った薬が見つかったようで、統合失調症の症状が緩和され、母に少しずつ笑顔が戻りました。ただ、いつどんなきっかけで症状が悪化するか分からないのと、「自分は母に選んでもらえなかった」という感情がどうしても消えず、表面上は穏やかな関係でも、私自身の心の中は複雑で、腫物に触れるかのような関係でした。

大人になってからだんだんと理解ができるようになった、母のやさしい選択
あれから25年が経ちました。今なら重度障害のある兄だけを連れていった母の気もちが分かる気がします。
母はできる限り家族それぞれがその人らしく暮らせる選択をしたのだと思います。

もし仮に母が私たち(姉と私)を連れて出ていってしまったのなら、姉は自分のために働くのではなく家族を養うために働かなくてはなりませんし、私は高校生という立場の中、ヤングケアラーとなり、外での生活(学校や交友関係など)を楽しむことも、その先の進路などを見据えることも難しかったのではないかと思います。

大人になって、母の感じた重圧や不安に気づき思う「十分頑張ってくれた」
母はきっと寂しかったのだろうと思います。

障害児育児、他人との関わり、自分の体(足に持病があります)が以前より思うようにいかないもどかしさ、寄り添ってほしい身近なパートナー(父)とのコミュニケーションの難しさ(父は生まれつき片耳が聞こえません)。
ライフステージが変化する中で、持病がある中さまざまな重圧や不安を日々感じながら3人の子どもを育てていたという事実を想像しました。

それは、現在の私とは比べることもできないくらい大変だったことだろうと、今なら簡単に想像がつきます。

母が家を出てからの20年間は、紆余曲折ありました。
(兄は今から18年ほど前から障害者支援施設に入居することができたため、兄の生活が安定しました)。
その20年の間に、母の統合失調症が悪化し、入院したことは何度もあります。

そして、現在は母が脳梗塞でなくなって5年が経ちました。


母のことを思い出すと、「幸せな人生を送れていたのだろうか?」といまだに思ってしまいます。私自身答えはきっとこの先も出せないだろうと思います。

ただ、きょうだい児だった私の立場として、母から得たものはたくさんあります。

自分のことは優先してもらえることはなかった気がしますが、母は私を一方的に叱ったりする人ではなかったし、私の人生を否定することは一度もありませんでした。

もし私がきょうだい児として、兄と違った関わり方を母に強要されていたのなら、私は自分の人生の意義を見出せなかったり、兄のことも今のように、大事に思えなかったのかもしれません。結婚もしていなかったのかもしれませんし、そうすると、主人や子どもたちに出会えていなかったことでしょう。

今の自分はおそらく、発達障害のある子どもたちとさまざまなことに遭遇しながらも、楽しく暮らせている気がします。それは、幼少期より私の母が暖かく見守ってくれていた賜物ではないかと思うのです。

母が十分、頑張って私たちを育ててくれた。
そんな母が、もし仮に「自分のキャパを越えて頑張り過ぎた(もしくは、我慢しすぎた)結果、心を病んでしまった」のであれば、私はこの母の経験をもとに、自分の人生では、「自分がもっている能力以上に頑張る必要はない」という答えにたどり着きました。

今まさに、障害児育児を頑張っている方に、私と母の経験から、「頑張りすぎないで」「自分を大事にして」と心から伝えたいです。

執筆/スガカズ

(監修:三木先生より)
つらいことがあったとき、子どもは結果から理由を類推するしかありません。スガカズさんのように「いい子だったからいけないんだ」という解釈になってしまうことがよくあります。でも大人になって初めて「自分は悪くない」ということが分かることもあります。それもきっと、お母さまがお母さまなりの見守り方をしてくださったからなのでしょうね。
渋谷母娘刺傷 「母と弟殺すため予行練習」逮捕の少女 母親は“受験勉強や不登校について厳しく言った”
8/23(火) 1:33配信
日テレNEWS

東京・渋谷で親子が刺され、中学3年の少女が逮捕された事件。少女が母親への殺意について話している中、その母親が事情聴取に「受験勉強や不登校について厳しく言った」などと話していることが新たにわかりました。

    ◇

事件発生直後の現場の様子をとらえた映像にはー。

母親とみられる声
「何! 何! ちょっとどうしたらいいの」

現場には、母親とみられる女性の声が響いていました。

母親とみられる声
「逃げるなよ!」

容疑者の少女は取り押さえられ、その隣で娘がぐったりと倒れている様子も映っていました。

母親とみられる声
「取り押さえてもらえます? 娘の面倒見たいんで」

男性にかわってもらうと、倒れた娘に駆け寄る様子も見られました。別の映像では、取り押さえた男性の手には、少女から取り上げたとみられる刃物が握られていました。

母親とみられる声
「大丈夫? どこ刺されたの?」

目撃者
「やばい、やばい」

母親とみられる声
「どこ刺されたの? 警察!」

「なんでそんなことするの、あんた誰?」

    ◇

20日夜、東京・渋谷区神泉駅近くの路上で、母親(53)と娘(19)が刃物で刺されるなどして重傷を負った事件。殺人未遂の疑いで、逮捕・送検されたのは、埼玉県戸田市に住む、中学3年生の少女(15)です。

逮捕された少女(15)
「女性2人をナイフで刺したことに、間違いない。死刑になりたいと思ったので、たまたま見つけた女性2人をナイフで刺し殺そうとした」

警視庁によると、親子は背中などを刺され、全治3か月の重傷だといいます。娘の背中の傷は、深さ10センチ以上で腎臓に達するほどでした。

目撃者
「普通のけんかだと思ってドア開けたら、お母さんが『この子、ナイフ持ってるよ』って言ってた。『助けてください』って」

確保時の少女の様子については――

目撃者
「無抵抗な感じ。目が死んでいる」

取り押さえた男性は、少女に次のように聞かれたといいます。

少女を取り押さえた男性
「ナイフを取って倒したら、(少女が)僕に聞いてきたんですよ。『あの子、死んだ?』って、2、3回くらい。「あの子、死んだの?」って」

――大きな声で?

少女を取り押さえた男性
「めっちゃ小さい声。『あの子、死んだ?』って」

少女は親子とは面識がなく、無差別に狙ったとみられます。

    ◇

少女の足取りも明らかになってきました。

事件当日の昼すぎ、「塾に行く」と言って埼玉・戸田市の自宅を出ると、電車でJR新宿駅へ向かいました。歩いて人通りの少ない場所を探すうちに、渋谷区の事件現場周辺にたどり着いたといいます。

逮捕された少女(15)
「暗くなってきて、場所的にも人通りが少なくなったので、人を刺すならここが良いと思った」

22日夜、事件発生時刻と同じ時間帯の現場を歩いてみると、平日の夜にもかかわらず、通る人はまばらでした。

事件現場から50mほど手前に設置された防犯カメラの映像には、傘をさして歩く親子とみられる2人の後ろを、容疑者とみられる少女が早足で追いかける様子が捉えられていました。距離はじわじわと縮まり、その後犯行に及んだとみられています。

刺された直後の映像の中でも――

母親とみられる声
「いまずっと、後ろついてきている人、いると思ったんです」

目撃者
「『なんなのあんた、つけてきたでしょ!』みたいなことを言っていて」

「(母親は)謝ってましたね、娘さんに対して。『こういう暗い道を通ってしまってごめんね』って」

    ◇

少女は調べに対し、「母親と弟を殺すための予行練習だった」と話しています。

容疑者の少女
「怒ると不機嫌になったり、顔に出る母親の嫌な性格が自分に似てきた。それが嫌になって、お母さんを殺そうと思った。母親を殺すときに、弟がそれを見たらかわいそうだと思い、いっそのこと弟も殺してしまおうと思った」

一方、少女の母親への事情聴取の内容が新たに明らかになりました。

少女の性格については――

容疑者の母親
「おとなしくて、生真面目。あまりしゃべるタイプではなく、冷静に淡々と物事をこなすタイプ。何か主張をするときには、小さいころから、感情的になることはほとんどなかった」

最近の様子については――

容疑者の母親
「中学校に入って、部活を辞めたり、次第に不登校になっていった。最近は来年の受験に向けて、私が勉強をしっかりやるように問い詰めたり、学校に行けていないことを 少し責めたりしていた」

受験や不登校について、指摘していたといいます。その上で――

容疑者の母親
「厳しく言ったときも言い返すことなく、淡々と返事をしていました。私に対する不満を言えずに、いつのまにか、ためこんでいたのかもしれません」

     ◇

犯行には、刃渡り約8.5cmの包丁が使われたほか、現場から、約9cmと7.5cmのナイフ2本を押収。少女は3本とも、「自宅からバッグの中にいれて持ってきた」と供述しているということです。

警視庁は、少女が刃物を自分で用意して計画的に犯行に及んだ可能性が高いとみて、詳しく調べています。
千葉・女子高生に2度も尿かけた疑いの“現役”国語教師、仰天の「犯行理由」とワイセツ行為の常習性
8/25(木) 5:01配信
週刊女性PRIME

「当高校に赴任して5年目ですが、特に問題のない教師でした。野球部の顧問も、とても熱心にやっていたんですけど……」

 容疑者が勤務していた千葉県立袖ケ浦高校の教頭は、突然の不祥事に驚きを隠せない様子だ。

 8月16日、同県警千葉中央署は、同校教諭の八木朋浩容疑者(32)を県迷惑防止条例違反(卑わいな言動)の疑いで逮捕した。

「容疑者は6月6日の午前7時18分ごろ、容疑者は千葉市中央区にあるコンビニに現れ、同店アルバイトの46歳女性に自身のスラックスのチャックを全開にして、パンツを見せつけました」(全国紙社会部記者)

 朝イチの犯行後、容疑者はそのまま高校に出勤して教壇に立っていたというから驚きだ。

「被害女性の証言と、コンビニの防犯カメラ、周辺の防犯カメラなどで容疑者を特定して、容疑者自宅で逮捕。その後、容疑者が常連客だったことも判明します」(捜査関係者)

 ワイセツ教師の犯行はこれだけではなかった。千葉中央署で取り調べが行われている最中の17日、2度目の逮捕が発表される。

わざわざ先回りして“立ちション”
「八木容疑者は7月8日の午後9時30分ごろ、同市若葉区の道路上と歩道上の2回にわたって、県内の女子高校生(15)が乗っていた自転車におしっこをかけていた。いわゆる“立ちション”スタイルによる犯行で、2度目にかけた際はわざわざ先回りして犯行に及ぶという、異様な執拗さがあった」(前出・社会部記者)

 尿がかかったのは自転車だったが、容疑者が女子高生をめがけてかけて“立ちション”したのは明らかだったため、同県警千葉東署は暴行の容疑で逮捕している。

 犯行当日、容疑者は学校に出勤していなかったというのだが、

「彼は高野連の役員も務めていました。7月8日は学校を休んで、夏の甲子園の県予戦の準備のために、球場に行っていました」(前出・袖ケ浦高校の教頭)

 その帰り道で犯行に及んだというのだから、まさに高校生の晴れの舞台を汚すような行為と言えよう。また、一連の犯行が普段の生活の中に組み込まれていることから、日常的に行われていた可能性もある。

 この2つの事件について八木容疑者は、

「やったことに間違いはありません」

 と率直に容疑を認めているようだ。はたして、その動機とはーー。

「とりわけ後者では“おしっこをかけて満足感と興奮を覚えました”と供述しています。被害者への嫌がらせによる犯行といった類いのものではなく、快楽や悦楽を得るためだった。要するに、自分の性的欲求を満たすための悪質な行為です」(捜査関係者)

 尿をかけられたという被害は近辺で頻繁に起きていて、警察は容疑者との関連を引き続き調べているという。

誰とでも話すクラスの人気者
 八木容疑者は、宮城県の出身。地元の県立高校時代の同級生はこう話す。

「真面目で、勉強も部活も頑張っていましたよ。それで頭はよかったし、スポーツも万能で野球部ではピッチャーだった。誰とでも話すような生徒で、印象が非常によくて人気者だったんですけど……」

 高校卒業後、青森県の弘前大学へと進学した容疑者。大学卒業後に社会人野球のチームに所属した後、国語の高校教師の職に就く。前任の高校では、女子ソフトボール部の顧問を務めていたという。

 容疑者の実家へ連絡をとると、父親が応じるも、

「(この事件で)家族も大変な状況なので、本当に申し訳ありませんが、ご遠慮させてください……」

 と弱々しく取材拒否した。

 容疑者の今後について、千葉県教育委員会は、

「処分につきましては、いまのところ厳粛、適宜に対処していくとしか言えません」

 としているが、聖職ということで考えれば、おそらく懲戒免職は免れないだろう。

「被害者と示談にでもなれば、罰金刑程度ということも十分に考えられる。だが、社会的な制裁のほうが大きいので、これからが大変でしょうね」(前出の捜査関係者)

 軽犯罪とはいえ、女性をバカにしたような犯罪の報いは大きかった。
にしおかすみこが明かす認知症母、ダウン症姉、酔っ払い父との生活
8/19(金) 10:56配信
デイリー新潮

 いわゆる“SMの女王様”のファッションでムチを振り回し、漫談を披露していた女性の一発屋芸人といえば、思い出す人もいようか。現在、にしおかすみこ(47)は芸能活動をしつつ、実家で家族の介護に向き合う。その日常を書いたエッセイが共感を呼んで話題なのだ。

 ***

〈母、80歳、認知症。

姉、47歳、ダウン症。

父、81歳、酔っ払い。

 ついでに私は元SMの一発屋の女芸人。46歳。独身、行き遅れ。〉

 こんな「家族紹介」で始まるエッセイ「ポンコツ一家」は昨年9月からライフスタイル誌「FRaU」(講談社)のサイトで連載中。ご本人が執筆のきっかけを語る。

「2020年にコロナ禍で仕事がなくなり、貯金も底を突いたので、家賃が安いところへの転居を考えまして。ところが久しぶりに千葉の実家に戻ったら、どうも様子がおかしい。それが、20年の6月のことになります」

“頭かち割って死んでやる”
 その時の模様は次のように描かれる。

〈以前から雑然としたうちではあったが……(略)ちょっとしたゴミ屋敷だ。

 そんな中に埋もれるように母が、いた〉

 床を歩くと、砂だらけでジャリジャリと音がする。仕方なく部屋を掃除すると、母親の怒鳴り声が。

〈余計なことするんじゃないよ! 偉そうに!〉

 家には酒に目がない父親と、障害者用就労施設に通う姉。これは放っておけないと、彼女は引っ越しを諦め、二十数年ぶりに家族と住むことを決める。

「まず母が認知症かどうか確認するため、精神科で診てもらうことに。“絶対行かない”“頭かち割って死んでやる”と抵抗していた母ですが、突然“行く”と。その瞬間にタクシーを呼んで連れて行きました」

 結果、脳の萎縮が見られ、初期の認知症と診断された。

初日でバレた
「要介護支援の認定もとろうとしたのですが、母の状態は『要支援』か『要介護1』、つまり一部手助けが必要といった程度らしいのです。手続きのために母をこれ以上動かすのもしんどくて、話はそこまで。以後は、母の糖尿病のかかりつけのお医者さんに相談しながらやっている感じです」

 最近は芸能の仕事も徐々に入るようになった。家では家族全員の食事の用意と洗濯、掃除をこなす。姉のことは母親が「自分の責任で」見守っているという。エッセイは、女三人のやりとりを中心に“ポンコツの父親”を加えた一家の光景がコミカルに、ときに哀感をたたえながら展開される。

「最初は、暇でお金もないので何かしなきゃいけないなと書き始めた感じです。マネージャーさんの協力で連載の件は決まりました。私が身内の話を書いていることは、家族にできれば一生バレないにこしたことはないと思ってたんです。でも、連載開始初日に父がネットで見つけてしまって。母は“全国民がうちの悪口を言ってるって本当か”と私に怒ってくるんです。“そんなことないよ。コメント欄を見ると、みんな優しいよ”って返しました」

自分で選択した家族との大切な時間
 主題となった「介護」についてはどう考えるか。

「うちは今のところ排泄や徘徊の問題はないので、介護といっても大変なことをしているわけではありません。私が思っているのは、とにかく自分が元気でいるのが大事だなということ。そうでないと家族も負担を感じるし、誰も幸せになりません。もし認知症が進行していったら、また違う考えになるのかもしれませんけれど。母に対して“もうイヤだ”と思ったりする関係性も含めて、今は自分が自分で選択した、家族との大切な時間だと思っています」

「週刊新潮」2022年8月11・18日号 掲載

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