5月25日に配信した探求犬🐶LIVEのメモ書きになります。

 

岩畔豪雄

日本の陸軍軍人 1938年(昭和13年)には秋草俊、福本亀治と共に日本初のスパイ学校、後方勤務要員養成所(のちの陸軍中野学校)を設立

岩畔豪雄 - Wikipedia

将来の総力戦に向けた研究を行うため、満洲国の経済建設に関わった秋丸次朗主計中佐を関東軍から呼び戻し、秋丸機関を設立した。

秋丸機関の計画により大東亜戦争へと進むことになる。

登戸研究所

1942年(昭和17年)10月に陸軍の兵器行政の大改革を行い、兵器の行政本部、陸軍技術本部をまとめて陸軍兵器行政本部を設け、その下に10の技術研究所を設立。その第9研究所が殺人光線などの電波兵器を研究した通称登戸研究所(現在の神奈川県川崎市多摩区生田)で、所長には篠田鐐大佐が就いた。登戸研究所はこの他、毒薬生物化学兵器の研究・開発、リモコン戦車、風船爆弾など各種爆弾、風船爆弾に搭載する牛疫ウイルス、ペン型銃、電話盗聴器、各種超小型写真機、超縮小カメラ通信、通信用秘密インク、パスポートから偽造紙幣まで何でもつくっていた。生物化学兵器の研究・開発では、陸軍軍医学校内藤良一石井四郎などと連絡を取り合い登戸研究所内で人体実験も行われたといわれる。偽札製造は中国の経済攪乱を目的とする、それまでとは比べ物にならない精巧な法幣(中国紙幣)偽造工作であったが、岩畔はこの計画を発頭[28][29]。秘匿名を「杉工作」と称し、山本憲蔵主計少佐を登戸研究所に配属し工作に専任させ、実施面の責任者に阪田誠盛を起用し上海に杉機関(阪田機関)を設置した[30][26]。製造については、凸版印刷巴川製紙の社長を兼ねていた井上源之丞の全面協力があったという。偽札計画は推進され、中国の秘密結社青幇との密接な協力関係をとりつけるなどで、偽札は実際に印刷し大量に投入もされた。約45億を製造し、軍事物資の調達などで約30億元が使用されたといわれる。当時の1はほぼ1で、1945年の日本の国家予算が約200億であったことから、これほど大量に実際に偽札が使用された事例はなく、登戸研究所を舞台とした偽札印刷は、世界大戦中における最大規模の経済謀略であったとされる。しかしこれは思わぬ結末を迎えた。大きな転機となったのは1941年12月、日本軍による香港攻略である。これにより重慶側の紙幣印刷工場を鹵獲し、工場の"ほんもの"の紙幣ならびに機材を押収した。このため用紙インキ印刷機械も全て"ほんもの"を使い"、ほんもの"の紙幣を製作。"ほんもの"を大量に投入することになった。結果、この偽札工作は皮肉なことに、法幣不足に悩む重慶側を助けることになったとされる。なお、登戸研究所は1944年頃から米機の空襲が頻繁となったため、研究所の第1科、第2科は、長野県伊那地方疎開。偽札を製造をしていた前述の第3科は福井県武生市に疎開した。これはここに原料不足で稼働していなかった加藤製紙工場があったためで、ここを借り上げ引越しをしたが、その途中に終戦となった。印刷機械設備は日本海に投棄するなど痕跡をとどめないようにしたという。

1942年4月、三井三菱大倉財閥の出資で満州に軍需国策会社・昭和通商を設立
昭和通商には堀三也大岸頼好竹内俊吉五島徳次郎関山義人石田礼助らが在籍した他、岡正雄川喜田二郎今西錦司児玉誉士夫許斐氏利なども関わったとされる[41]。岡は岩畔に招かれ中野学校で3年間にわたり講義を行うなど親密な間柄だった[42]。昭和通商が通常の商社業務以外に、裏ではアヘンの取引も手がけていたため、ダーティなイメージを強調されるが、それを知っていたのはトップの人物のみで全員が関わったわけではなく、その実態はもっと幅広く、活動範囲も中国大陸だけではなく、全世界にネットワークを張った組織であったという。また同年勃発したノモンハン事件の拡大に反対し、シンガポール奇襲作戦を軍内で唱えるなど南方進出の急先鋒で知られた。「大東亜共栄圏」という言葉は、岩畔と堀場一雄が作ったものといわれる。
 
永野重雄の息子である辰雄の妻は堀川辰吉郎の四女、弘栄である
その子がアイゼンベルグの妻と言われているが間違いで岸信千代の家系図にある伸子が本当の妻であると思われる。
 
右が本人が出した家系図
永野 重雄(ながの しげお、1900年7月15日 - 1984年5月4日)は、日本の実業家。新日本製鐵会長・経済同友会代表幹事日本商工会議所会頭などを歴任した、戦後日本を代表する経済人の一人
広島県呉市沖の瀬戸内海に浮かぶ下蒲刈島三之瀬にある浄土真宗本願寺派弘願寺が実家
源氏との壇の浦の戦いに敗れた平家の武将・永野小佐衛門がこの地に落ちのび名を常浄と改め、元行寺という浄土宗の廃寺跡に弘願寺を建立した
弘願寺(こうがんじ)は、奈良県吉野山にある高野山真言宗の寺院である。
修験道が護摩焚きをする歯がため地蔵祭がある香ばしい所である。
 
浄土真宗本願寺派といえば
赤松克麿
山口県徳山市(現・周南市)に浄土真宗本願寺派徳応寺住職赤松照幢、安子の四男として生まれる。叔父は与謝野鉄幹である。
三月事件十月事件にも関与する。
祖父は西本願寺の重鎮赤松連城、父・照幢は与謝野鉄幹の実兄にあたる。
 
華族では、昭憲皇太后の姪・鶴殿ちか子が入信して宣伝使(宣教師)となった。
香淳皇后の養育にあたった山田春三(宮中顧問官)も入信し、宮中某重大事件では王仁三郎に相談している
 
世界紅卍会
道教系の宗教団体「道院」に付随する修養慈善団体。戦前の中華民国及び満州において赤十字社に準ずる組織として活動した
黎明期は、扶乩(フーチ、ふけい)に依る乩示(けいじ) を御信託とした天啓宗教で、修養方法等は道教の流れを汲んでいたとされている。宇宙の独一眞神を「至聖先天老祖(老祖)」とし、最上位の神体に準じて、老子(道教)、項先師(孔子の師、儒教の祖)、釈迦(仏教)、マホメット(イスラム教)、キリスト(キリスト教)とされており、加えて歴史的な聖賢哲人を祭祀する包括信仰団体である[3]。一宗一派に偏せず万教帰一の思想とする。
主な会員
万教帰一なので宗教統一を目的としている
 
昭和製鋼所
第一次世界大戦から第二次世界大戦までの間、満洲で活動していた鉄鋼メーカー。後に満洲国特殊法人とされ、国策会社の色合いが強かった。本社および工場は鞍山に置かれた
現在は、鞍山製鉄所として存在し、李鵬の叔父(母の兄)趙世炎チョウ・セヨンの次男の趙施格が経営している。
 
袁世凱(えんせいがい)
中華民国初代大総統、大清帝国第2代内閣総理大臣

 

辛亥革命 孫文の影響を受けた革命軍が武昌と漢陽を武力制圧し、黎元洪を都督として中華民国軍政府が成立を宣言した[1]。清国は革命軍の制圧に失敗し、15省が次々と独立を宣言した。1911年12月29日、上海で孫文が中華民国大総統に選出され、1912年2月12日に清最後の皇帝溥儀が退位し、清国は滅亡した。

 

次男の袁克文は朝鮮の望族安東金氏を出自に持つ母(そのために中華王朝とはいえ一武人の側室の地位に甘んじなければならないことを常に嘆いていた)として出生、崑曲家として著名な人物であるが、皇帝即位への反対で父の怒りを買って追われ、青幇の一員となった。その袁克文の子が物理学者として名をはせた袁家騮である(実験物理学者呉健雄と夫婦)。
 
孫文
中国語圏では孫文よりも日本名の中山 樵(なかやまきこり)をとった孫 中山(そん ちゅうざん)の名称が一般的であり、孫中山先生と呼ばれている。1935年から1948年まで発行されていた法幣(不換紙幣)で肖像に採用されていた。現在は100新台湾ドル紙幣に描かれている。
日本との関係 犬養毅の仲介を経て知り合った宮崎滔天 や頭山満・内田良平らとは思想上も交遊し、資金援助を受けてもいた。
 
笹川良一
日本名、笹川良一が実は朝鮮人の「文堯」であり、長男がソウルに住んでいる

 

 

洪 秀全(こう しゅうぜ)

代の宗教家革命家太平天国の指導者。キリスト教を基にした宗教教団の拝上帝会を興し天王を自称、南京を首都として清に反旗を翻し、国号を太平天国とした

広東省広州府花県福源水村出身で後に官禄布村に移った客家人。

拝上帝教は入信すれば男女問わず平等であり、男性同士は兄弟、女性同士は姉妹とし、ヤハウェ天父キリスト天兄と称した。教義は三位一体説と大きく異なり、洪秀全をキリストの弟、ヤハウェの次男とし、人間界に至って神の意思を実行する者としている。

 

 

太平天国の乱

先立つアヘン戦争で消耗し、アロー戦争をも同時進行で戦わなければならない正規軍は広大な国内に分散配置せざるを得ず、正面からぶつかる事も不可能な事態さえ起こった。そして、大衆を吸収して膨れあがった太平天国軍は清軍を何度も打ち破った。

しかし食料・火薬が底をついたため太平天国軍は永安を後にし、楊秀清の意見に従って北上し湖南省湖北省を目指すこととなった。

 

5月25日Xスペースまとめ

伯爵:世界は寒冷化に向かう

私:フィリピンでは、名目では人口増加で米不足なので米の増産をしろと政府がいっているが対して日本は、減反(減産)、欧州も農薬の使用禁止にし無農薬や小農薬の作物を推進する傍らで輸入品には、農薬規制がないので安い作物に押されて農家が潰れる方向になっている。

寒い地域は減産して暖かい地域は増産をしているのかなあ?

やったる:茨城の米は、売れないから、燃やした。