「明応の政変」

1、「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2

2、「明応の政変の起因」・・・・・・・・・・・・・・・3

3、「義材の将軍就任と義視の死」・・・・・・・・・・・19

4、「六角征伐に守護大名連合も成果なし」・・・・・・・32

5、「将軍就任するが内紛続きで権威失墜」・・・・・・・41

6、「六角征伐と河内征伐に大号令」・・・・・・・・・・58

7、「政長の義材から義澄将軍への画策」・・・・・・・・72

8、「政長クーデター決行する」・・・・・・・・・・・・84

9、「政長の自害と義材の降伏」・・・・・・・・・・・・97

10、「義材将軍の器にあらず墓穴を掘る」・・・・・・・120

11、「政変後の大名乱立で下克上へ」・・・・・・・・・133

12、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・・181

 

 

 

 

1、「はじめに」

明応の政変は1493年(明応2年)細川政元が将軍足利義稙を廃位した政治クーデター。前年2度目の六角氏討伐を終えて近江から帰京した義稙は、この年の2月畠山基家を討つため河内に出陣した。しかしこれに反対した政元は、義稙の廃位と基家誅伐の首謀者である畠山政長の追放を図り、4月被官上原元秀らに命じて、義稙や政長の邸宅を破却、当時天竜寺の喝食であった香厳院清晃(足利政知)の次男、後の義澄を新将軍に擁立した。5月政長は自殺、義稙は龍安寺に幽閉された。事件の背景には将軍の親裁権強化を目指す奉行人・奉公衆と、それを阻止し畿内政権樹立をもくろむ細川氏との、幕府内での主導権をめぐる対立があった。