また郡上藩領でいまだに定免法が採用されているのは地方役人の怠慢と言え、幕府の定めた年貢徴収法である検見法を説明し、受け入れるように言い渡すものである。

また十六か条の願書は検見法の受け入れ反対に乗じて強訴を行ったものであるため認め難いものではあるが、検見法を受け入れるのならば十六か条で取り上げられた課税について考慮することにするとの内容の申し渡しがなされた。

その上で昨年手渡された農民たちの訴えを聞き届ける旨の三家老の免許状も提出せよと命じられ、もし承知しなければ重い罪科に問われると脅された。また笠松陣屋の元締めからは郡上藩主の金森頼錦が昨年は病気であったこともあって、美濃郡代に検見法の言い渡しを頼まれたものであるとの説明があった。

青木次郎九郎らの言い渡しに対して、庄屋らは昨年の経緯を説明してみたものの、全く聞き入れる様子も無い上に代官所の役人、同行していた郡上藩士らの圧力もあって、庄屋らはやむを得ず印形をした。宝暦5年7月27日(1755年9月3日)には、笠松陣屋から11名の使いの庄屋が郡上に来て、残りの郡上郡内の約100名の庄屋も笠松陣屋へ出頭することとなり、宝暦5年8月1日(1755年9月6日)には、全ての庄屋がやはり強制的に印形をさせられた。

もっとも富裕な農民、地主であった庄屋たちにとって、検見法を受け入れれば各種の税や御用金、使役の負担増の軽減を願った十六か条の願書受け入れの検討をするという方針は、商品作物や通行税への課税減免の検討という利益に繋がる内容であり、検見法受け入れは庄屋たちの利益に即したものであったとの説もある。

宝暦5年8月2日(1755年9月7日)、笠松陣屋から三家老の免許状を受け取るための飛脚として小野村孫兵衛、甚十郎が派遣された。免許状を預かっていた小野村半十郎は飛脚に対して、いったんは農民らと相談した上で書状を渡すと告げたが、美濃郡代の命であると引渡しを強要されたため、やむを得ず渡すこととなった。

しかし小野村半十郎は各村に三家老の免許状引渡しについて知らせており、宝暦5年8月4日(1755年9月9日)、問題の書状を携えた飛脚は追いかけてきた大勢の農民たちに郡上境の母野で追いつかれ、書状はその後行方知れずとなった。その結果、小野村半十郎、小野村組頭弥兵衛、小野村孫兵衛、甚十郎は三家老の免許状紛失の咎で村預け扱いとなった。

一揆の再燃

宝暦5年8月4日(1755年9月9日)、笠松陣屋からの飛脚から三家老の免許状を奪い取った大勢の農民たちは、ただちに解散することなく今後の対策を協議した。その中でまず郡上郡中の代表として各村1名ずつ、総勢130名あまりが藩庁に行き、三家老の免許状を笠松陣屋に渡さぬように嘆願した。

しかし藩側は、三家老の免許状を笠松陣屋に渡すことは殿様(金森頼錦)のご意思であり、殿様のご意思に背くのか背かぬのかと詰問され、これに対して橋詰村庄兵衛が「背くでもあり、背かぬでもあり」と答えたため、村預けとなってしまった。

宝暦5年8月11日(1755年9月16日)には、笠松陣屋から庄屋代表9名と足軽4名が美濃郡代の命を携えて郡上郡境までやって来たが、大勢の農民たちによって追い返された。

その後も農民たちは郡上郡境を固め、宝暦5年8月17日(1755年9月22日)には15名の庄屋と4名の足軽の計19名が郡上へと向かったが、農民たちは検見取了承に印形をした庄屋たちを郡上に入れるわけにはいかないとして、やはり追い返された。農民たちの庄屋の帰還阻止行動は約2ヵ月半に及ぶことになる]

一揆の拡大

那留ヶ野の盟約

宝暦5年8月12日(1755年9月17日)、藩の弾圧が及びにくい郡上八幡の中心部から離れていて、山に囲まれた谷間である白鳥那留ヶ野に、主だった農民約70名が集まり盟約を結び傘連判状を作成した。

その上で読み書きの能力などを考慮の上で各人の役割分担を行い、更に江戸にて訴訟を進めるための計画を立てた。この時点で郡上郡内各地域の農民代表による集団指導が成立した。

農民代表らの構想は、まず藩主へ直訴することによって悪い役人が強行しようとしている年貢徴収法の改正を中止させることを目指した。

那留ヶ野の盟約の後、郡上郡内の各地で農民らの盟約が交わされ、連判状、傘連判状などが作成された。

これは農民らが団結して笠松陣屋から宝暦5年7月21日(1755年8月28日)に行われた申し渡しを受け入れないことと、庄屋の同申し渡しの受け入れ印形撤回を要求するものであった。

江戸出訴

那留ヶ野で盟約を交わした翌日の宝暦5年8月13日(1755年9月18日)、70余名の農民代表が江戸の金森藩邸に出訴するため郡上を出発した。農民代表の江戸出訴を1500名余りと伝えられる多くの農民が見送ったが、江戸に送った代表たちのことが気がかりになった農民は、宝暦5年8月22日(1755年9月27日)には、百石につき一名の割合で選んだ200名余りを新たに江戸に送った。

しかし8月13日に出発した農民たちは那留ヶ野の盟約時に選ばれた農民代表であったが、8月22日に出発した農民は特に選ばれた人たちではなかったため統制が取れず、いつしかちりぢりとなってしまい全く役に立たなかった。

なお当時、各街道には関所が設けられ通行手形のチェックが行われていたが、乞食、非人、渡世人ら村や都市に籍を置いていない人々については手形無しの関所通過が黙認されていた。

江戸に向かった郡上の農民たちのいで立ちはみすぼらしく、乞食同然の姿であったため、通行手形無しの関所通過が咎められることはなかった。

宝暦5年8月13日(1755年9月18日)に郡上を出発した農民代表は、9月初旬に江戸に到着した。江戸到着時、出発時70余名であった農民代表は40名に減少していた。江戸到着後、農民代表は馬喰町猶右衛門、鉄砲町太郎右衛門などに分かれて宿を定めた。代表たちはまずは江戸金森藩邸に願書を提出することとした。

金森藩邸への願書提出

宝暦5年9月5日(1755年10月10日)、農民代表40名のうち3名が、宿屋江口屋仁右衛門の案内で郡上藩江戸屋敷に出向き、総百姓名で「宝暦4年に定免法の継続を明記した三家老の免許状を頂いたが、このたび笠松陣屋から庄屋たちが呼び出され、検見法を了承してしまった。

ただでさえ生活が苦しい我々農民たちは検見法にされては生きては行けぬので、国元でもお願いしたが叶わなかったので、こうしてお願いに参上した。昨年秋に提出した十六か条の願書は添えなかったが、お尋ねがあればお渡しする。定免法にしていただければ大勢の農民が助かるのでぜひお願いしたい」という内容の願書を提出した。