7「屋久島に到着」

第一船の一行は唐に戻ることとなる。7日後(七日去)の天平勝宝5年12月12日(ユリウス暦754年1月9日)に益救嶋(現在の屋久島)に到着して鑑真の来日が叶った。

屋久島(やくしま)は、鹿児島県の大隅半島佐多岬南南西約60㎞の海上に位置する島。熊毛郡屋久島町に属し、近隣の種子島や口永良部島などと共に大隅諸島を形成する。より南方にトカラ列島と奄美群島が位置する。九州最高峰の山、宮之浦岳がある。

面積504.29 ㎞2、周囲130㎞(東西約28㎞、南北24㎞)。円形に近い五角形をしており、淡路島よりやや小さい。鹿児島県の島としては奄美大島に次いで2番目、日本全国では7番目の面積である(北海道・本州・四国・九州を除く)。

豊かで美しい自然が残されており、島の90%が森林である。島の中央部の宮之浦岳(1936m)を含む屋久杉自生林や西部林道付近など、島の面積の約21%にあたる107.47㎞2がユネスコの世界遺産に登録されている。

この世界遺産への登録は1993年、姫路城・法隆寺・白神山地とともに日本初である。

全島が屋久島町の町域である。

本島においての発電は、屋久島電工が製錬所の自家発電のために建設した火力発電所と水力発電所からの電気を、屋久島電工と九州電力を含めた4事業者が分担して供給しており、日本では唯一の発送電分離の形式をとっている。

したがって本島では九州電力から電気を買っていない世帯や事業者も存在する。平素、島内の電力は水力発電で賄われており、火力発電は緊急時に限って活用される。

地形・地質

屋久島はほぼ全域が山地であり、1,000mから1,900m級の山々の連なりは八重岳と呼ばれ洋上アルプスの異名もある。屋久島山地と記述した文献もある。中央部には日本百名山の一つで九州地方最高峰の宮之浦岳 (1,936m) がそびえる。

このような中央部の高峰は奥岳と呼ばれ、永田岳を除き海岸部の人里から望むことはできない。宮之浦岳、永田岳および栗生岳は屋久島三岳とされ、山頂に一品宝珠大権現が祀られ古来より嶽参りの対象とされてきたが、『三國名勝図會』の記す栗生嶽は位置的に現在の黒味岳に相当するとする説もある。海岸部から間近に聳える山々は前岳と呼ばれ、本富岳、国割岳および愛子岳などがある。

地質的には西南日本外帯の四万十帯に属し、島外周部は日向層群(旧称・熊毛層群)の第三紀堆積岩からなり、中央山岳部は直径約25㎞の巨大な花崗岩が貫入している。屋久島の高山はこの1550万年前にできた花崗岩がその後隆起して形成された。また激しい雨による侵食の結果残された花崗岩塊が点在し、永田岳の山頂付近に見られるローソク岩のような岩塔が林立する。一般に花崗岩は広い間隔で節理が発達するため巨大な岩塊が生まれる。さらに島の北西-南東方向および、北東-南西方向に発達した渓谷や尾根筋も節理の方向に沿って侵食が進んだ結果である。

屋久島を流れる河川は放射状に広がり、その数は140にも及ぶ。主な河川は安房川宮之浦川永田川栗生川の4つである。

また急峻な山々と日本一を誇る雨量のため深い渓谷が刻まれ、河床は急勾配で滝が発達している。大川の滝、千尋の滝などが良く知られ、宮之浦川には、屋久島最大の竜王滝(3段110m)がある。

 

朝廷や大宰府の受け入れ態勢を待つこと6日後の12月18日に大宰府を目指し出港する。翌19日に遭難するも古麻呂と鑑真の乗った第二船は20日(ユリウス暦754年1月17日)に秋目(秋妻屋浦。鹿児島県坊津)に漂着。その後12月26日に、大安寺の延慶に迎えられながら大宰府に到着。

坊津(ぼうのつ)は、薩摩国川辺郡坊津(現在の鹿児島県南さつま市坊津町坊)の地名であり、日本の古代に栄えた港名である。

古代から薩摩藩政の中盤頃(享保年間)の長期に渡って、海上交通上の要地であった。遣唐使船の寄港地としての他、倭寇や遣明船、薩摩藩の密貿易の拠点として栄えた。

中国明代の文書『武備志』では主要港として、安濃津・博多津と共に日本三津(さんしん)に挙げられている。

歴史

日本での仏教黎明期の538年に百済に仕えていた日本人の日羅が、龍厳寺(後の一乗院)を建てる。龍厳寺一乗院の坊舎があるなど仏教と密接な地であったため、「坊津」と呼ばれるようになったと考えられている(津は船着場や港の意味)。

飛鳥時代から遣唐使船の寄港地となり、「唐(から)の港」「入唐道(にっとうどう)」とも呼ばれるようになった。

奈良時代、天平勝宝5年12月20日(754年1月17日)に鑑真が渡日6回目にして、近縁の秋妻屋浦(現在の秋目地区)に上陸している。

平安時代末期には近衛家の荘園となる。

室町時代、倭寇や遣明船の寄港地となり、大陸をはじめ琉球や南方諸国とも貿易が活発化した。この頃、先の一乗院も大いに栄えるようになる。また、島津氏の中国(明)・琉球貿易の根拠地ともなっていた。文禄3年(1594年)には、後陽成天皇の勘気に触れた公家近衛信輔が配流され、同地で3年程過ごしている。

この頃伝来したキリスト教とも縁がある。1549年にフランシスコ・ザビエルが日本でまず最初に上陸したのはこの地である。また、江戸幕府のキリシタン追放令で国を出て、ローマで司祭となって戻ってきたペトロ・カスイ・岐部が寛永7年(1630年)に上陸したのも同地である。

江戸時代になると主要貿易港としての地位は長崎へ移り衰退するが、薩摩藩歴代藩主や調所広郷などに重用され密貿易の地として、鹿児島城下の直轄地としてその地位は保っていた。

しかし、密貿易は享保年間に突如徹底的に取り締められ、貿易港としての機能にピリオドが打たれた(享保の唐物崩れ)。この事件の背景には江戸幕府の命令があったとも、御用商人に密貿易を独占させようとした薩摩藩の政策転換があったとも言われる。その後はカツオ漁業・カツオブシ産業の地として栄える。