畠山 基国(はたけやま もとくに)は、南北朝時代から室町時代武将守護大名。家系は足利氏一門の畠山氏畠山義深の嫡男。子に満家満慶がいる。「基」の字は初代鎌倉公方足利基氏より偏諱の授与を受けたものとされているが、活動としては基氏の兄・義詮から続く足利将軍家に仕えて、室町幕府侍所頭人、第6代管領越前越中能登河内山城紀伊守護を歴任した。

   天授2年/永和2年(1376年)に侍所頭人に就任、天授5年/康暦元年(1379年)に父が死去したため越前守護を継承したが、同年の康暦の政変で管領となった斯波義将と越中を交換、越中守護に代わった。

   また、能登は当初は吉見氏頼吉見氏)、次いで本庄宗成が守護職であったが、いずれも失脚したため元中8年/明徳2年(1391年)に基国が守護となり、以後畠山氏の分国となった。

   弘和2年/永徳2年(1382年)に楠木正儀追討を命じられ、正儀に代わって河内守護に就任、畠山氏の河内経営の拠点となる若江城を築城した。

    明徳3年(1392年)1月、楠木正勝の守備する千早城は落城し、正勝らは大和国吉野十津川方面へと逃走した。

   楠木氏は60年以上続いた最も象徴的な根拠地を失ったのと同時に、畠山氏は名実共に河内国の支配者となった。

    また、元中8年/明徳2年に山名氏が蜂起した明徳の乱では幕府方の一員として参陣、翌年から応永元年(1394年)まで侍所頭人に再任、山城守護も兼任した。応永5年(1398年)6月には斯波義将の後継として管領に任じられ、応永11年(1404年)7月までの6年間を務める。

   応永6年(1399年)に大内義弘が蜂起した応永の乱でも戦い、戦後義弘の領国だった紀伊も領有、摂津欠郡(東成郡西成郡住吉郡)と大和宇智郡の分郡守護にも補任された。

   応永13年(1406年)1月17日、53歳で死去。

   嫡男の満家が当時失脚していたため、家督は次男の満慶が継いだ。法号は長禅寺殿春岩徳元。後に満慶は満家に家督を譲り能登一国を領有、子孫は分家として満家の系統の本家を支えていった。

   基国は畠山氏で初めて管領となった人物であり、室町時代に畠山氏が三管領家となった事から、畠山氏の中興の祖と言われている。

 

   京極 高詮(きょうごく たかのり)は、室町時代前期の武将守護大名室町幕府侍所頭人、近江飛騨出雲隠岐山城石見守護。

   正平7年/文和元年(1352年)、京極高秀の子として誕生。正平20年/貞治4年(1365年)、佐々木氏宗家六角氏頼の嫡男・義信が17歳で死去した。京極氏は佐々木氏傍流であったが祖父・佐々木道誉の時代に隆盛を極めており、道誉の孫でもある京極家嫡男・高経(高詮)は養嗣子として六角氏に赴き、京極氏の後継者は次弟の吾全秀満とされた。

   しかし氏頼は正平24年/応安2年(1369年)に新たに亀寿丸(後の六角満高)をもうけ、翌年には死去してしまう。

   このため跡目争いが生じ、高経は管領細川頼之が主導する幕府から亀寿丸が成人するまでの後見役を命じられ、六角氏が代々務めていた近江守護へと任じられる。

   応永元年(1394年)から応永5年(1398年)には侍所頭人も務めており、明徳の乱に敗れ京都の五条坊門高倉に潜伏していた山名満幸を捕らえて処刑した。

   京極氏は高詮の代である応永5年に侍所頭人を務める四職の一つと定められている。この後には出家し浄高(じょうこう)と名乗っており、主君である義満の出家に従ったとも考えられる。

   しかし高詮は出家後も京極氏の実権を握っており、応永6年(1399年)末に勃発した応永の乱でも幕府方の部将として活躍した。

   乱後に義満から石見守護職も与えられ、父・高秀時代の京極氏の勢力をほぼ回復した。

   なお、応永の乱においては高詮の家督相続に不満を持っていたとされる弟の秀満が反幕府方に呼応し挙兵しているが、程なく鎮圧されて没落している。

   応永8年(1401年)に出雲・隠岐・飛騨の守護職を嫡男・高光に継がせ、程なくして死去した。享年49。

 

   9「氏清・満幸軍と義満軍が激突」

Ø  氏清の軍勢2000騎は二手に分かれて突入。大内義弘、赤松義則の軍勢と衝突する。氏清は奮戦して大内、赤松の軍勢を撃退。

Ø  幕府に帰参していた山名時熙が50騎を率いて参戦し、8騎に討ち減らされるまで戦い抜いた。劣勢になった大内、赤松は義満に援軍を要請、一色氏斯波義重の軍勢が加勢して幕府軍は盛り返す。氏清の軍勢は浮き足立ち、義満自らが馬廻とともに出馬するに及び潰走した。

Ø  氏清は落ち延びようとするが、一色勢に取り囲まれて一色詮範満範父子に討ち取られた。