5、過剰な石高負担増え農民一揆に走る【山代慶長一揆】

「山代慶長一揆」とは、江戸時代慶長年間に、周防国山代で発生したとされる、一揆である。山代地方は、周防国の東端、安芸国との国境に位置する。戦国時代には大内氏の支配下にあったが、実際には刀祢と呼ばれる有力地侍達による自治が行われていた。その後、毛利氏大内氏領への勢力拡大に伴い、弘治2年(1556年)頃には毛利領となる。この際に成君寺城の戦いが発生し、山代の地侍達は大内方と毛利方に別れて戦っている。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍に加担した毛利氏は、中国地方8カ国120万から防長2カ国29万石へと減封となるが、山代地方は毛利氏の支配が続くこととなった。毛利氏は太閤検地の一環として天正15~18年(1587~1650年)に領国内の検地を実施しているが、このときの山代地方の石高は5300石と言われている。

その後、慶長5年にも検地を行い、石高11900石とされた。毛利氏は、関ヶ原敗戦後の減封に対処するため、慶長12年から年(1607~1610年)に再度検地を実施しており、防長2カ国で、実高539268石となったが、幕府には369411石と上申し、これが表高とされた。

山代の検地は慶長12年に行われ、実高は28325石とされ、慶長5年検地時の2,5倍となった。僅か10年で生産力が倍増する訳も無く、これは田一反あたりの石盛を高く設定したことに加え、小成物と呼ばれる各種作物も対象とすることにより、人為的に石高を高く見積もったものであった。

毛利氏の年貢率はもともと73%と高く、農民の負担は途方もないものとなった。この過酷な課税が山代一揆の原因となる。一揆の実態は不明であるが、慶長13年(1608)10月、11人の庄屋を中心に多数の農民が参加したとされる。一揆を代官所の人数だけで鎮圧することは難しく、代官所は減税の方向で一揆の鎮撫に努め、一揆を解散させた。結果73%の年貢率は40%に減額されたと言われている。翌慶長14年3月18日(1609年5月2日)、代官所より一揆の指導的人物である北野孫兵衛に対し、首謀者である庄屋全員を翌日に出頭させる旨の書状が届く。一同は出頭後直ちに捕縛、引地峠の刑場に連行され斬首、物河土手に裊首された。北野孫兵衛のものとされる首塚は現在も成君寺近くに残る。なお、僧休伝が追善供養にあたり、寛文4年(1664)浄土門の寺一宇建立を許されたとされる。これが建立寺で、現在も十一庄屋合同位牌が安置されている。

北野 孫兵衛(?~ 1609年)は、戦国江戸時代初期の武士で、周防国山代本郷村(現山口県岩国市本郷町および錦町)の庄屋。名は季勝。江戸時代初め、山代慶長一揆の指導者であった山代十一庄屋の代表として、長州藩に対して一揆を先導したことで知られる。

父は本郷村庄屋の北野次郎右衛門、母は三分一左衛門九郎の娘と伝えられ、鎌倉時代の武将・和田義盛の末裔とされる。北野氏は、義盛の末子である和田季盛が周防に住み着いたのを契機に、その子孫が30貫の領地を代々に渡って治め喜多野と称したことから発祥し孫兵衛季勝は、その9代目の当主である。

元来、孫兵衛は毛利家に仕えており、天正年間は毛利輝元の家臣として転戦し、のち輝元が豊臣政権の五大老となって大坂入りした際は孫兵衛も大坂へ随行した。

武芸に秀でていたとされ、とくに弓の名手と伝えられている。しかし、関ヶ原の戦いに前後して毛利家を離れ、長く仕官せず浪人として過ごした。本郷村の庄屋となるのは慶長の半ばという。

北野孫兵衛は農民一揆の義民として首謀者として犠牲者となって、斬首された偉人として、子々孫々に言い伝えられている。今日もその偉業を称え「山代義民顕彰会」に残され崇敬されている。山代十一庄屋・一揆を主導した11人全員が即日捕われ、斬首の刑となった。生見村の新原神兵衛の家系からは芥川龍之介が子孫として出ている。また波野村からは孫右衛門の名が見られるが庄屋ではなく、彼のみ一介の百姓である。

斬首となった11人は本郷村 北野孫兵衛季勝・府谷村 西村次右衛門・宇佐村 広兼七兵衛・宇佐郷村 山田平兵衛・河山村 岡新左衛門・波野村 中内助兵衛・生見村 新原神兵衛・南桑村 揚井市介・阿賀村 宗正作兵衛・大原村 讃井五兵衛・波野村 孫右衛門。

毛利藩は、折からの財政難に直面しており、その維持のため領内全てに対し慶長検地を行なった。この検地は慶長12年(1607年)から3年のあいだ続き、結果として課せられたのは7割3分(現在でいう73%)という極めて厳しい重税であった。

この税率に困窮した生活を強いられた領民の声を行動にうつす動きが広がり、府谷村の庄屋・西村次右衛門をはじめとする11村落の庄屋が立ち上がり孫兵衛もこれに加わった。孫兵衛たちは、代官所へ嘆願を行い4割の減税などを求めた。

慶長13年(1608年)10月、藩はこの嘆願をいったんは受け入れる形で年貢における高率の負担を撤廃したが、翌年の3月28日、代官所は、この動きを一揆暴動と処断し、これを主導した孫兵衛のもとに出頭命令を下した。

翌日、出頭した孫兵衛らには即日死罪の判決が下され、孫兵衛を含む11人の首謀者全員は縄を打たれ、引地峠で斬首された。孫兵衛らの首は本郷まで運ばれたのち、本郷川の土手に建てられた梟首台の上に晒されたが、夜になり孫兵衛の領民数名が彼の首を盗み、成君寺裏手の赤江の地に葬った。

一方で、孫兵衛らの意向に反して藩の検地に進んで協力した庄屋たちは、この一揆に加わらず村落は安堵されたが、この一揆を境に、山代では室町以来残ってきた中世的な国人思想の強い自由自治政治は消滅し、近世の幕藩体制が浸透してゆくきっかけともなった。

寛文4年(1664年)、本郷村の安養院に居を借りていた禅僧の休伝が、十一庄屋を悼み50回忌まで追善供養を行い、寺の建立が許され建立寺が建てられた。

明治32年(1899年)、有志により十一庄屋の頌徳碑が建立される。また、現在までで首塚があるのは北野孫兵衛季勝のみであるが、その首塚は、藩の目をあざむく意味もあってか碑銘のない塚となっている。

明治6年(1873年)より、新政府は増税を目的とした地租改正を実施するが、山口県ではそれに先立ち明治5年より調査を開始した。この際主導的立場にあったのが、小郡宰判大庄屋林勇蔵である。

この調査は独自の方法によって実施されたために、政府は再調査を実施した。勇蔵は大蔵省の再調査にも毅然とした態度で臨んだが、これは勇蔵が慶長一揆のことを山代の大庄屋であった三分一健作から聞き知っていたためと言われている。結果、勇蔵の調査の厳密さが証明され、

明治7(1874)年2月、全国に先駆けて山口県の地租改正は認可された。明治15年(1882年)6月、勇蔵は健作へ郵書を送り、慶長一揆のことをさらに詳しく調べるように依頼している。この返書を受けて、同年12月14日、吉敷郡鯖山禅昌寺において、11人のために大施餓鬼が実施された。

明32年(1899年)に至り、成君寺住職の発議で山代各村長に呼びかけて資金をつのり、十一庄屋頌徳の碑が建てられた。処刑400年目にあたる平成21年(2009年)11月14日、山代義民顕彰会により「義の心」と刻まれた石碑が、岩国市本郷総合支所向かいの市有地に設置された。