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エンヤードット(トット) エンヤードット

松島のサアヨー オオオー 瑞巌寺ほどの(ハ コリャコリャ)寺はない トエー 

アレワエー エーエット ソーリャ大漁だエー

「遠島甚句」

ハーアア アー押せや 押せ押せ アニ挺艪で押せあ 押せば港がエ アレサ近くなる

南風吹かせてアラ船くだらせて 元の千石積ませたい

エンヤードット エンヤードット

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と唄われる大漁唄い込みは『斎太郎節(さいたらぶし)』とも言われ、「ドヤ節」「斎太郎節」「遠島甚句(としまじんく)」で構成されている組唄で、宮城県・松島湾一帯に伝わる民謡である。

 

 

■唄の成立諸説

 「ドヤ節」は、宮城県牡鹿郡女川町(おしかぐんおながわちょう)の民謡で、大漁祝いに歌われたため、『大漁節』とも呼ばれる櫓こぎの歌。

 「斎太郎節」は、カツオ漁の祝い唄で、「遠島甚句」は松島湾沿岸の漁師たちが酒盛りで歌っていたものといわれている。

 

〇その源流は岩手県陸前高田市気仙町周辺の木遣唄である『気仙坂(けせんざか)』

重い物を移動するときに唄われる唄として、また、神に捧げる祝い唄としての性格から東北地方一円に広まり、三陸沿岸の漁村にも伝えられたとする説。

 

〇 かつては南部藩,伊達藩の通用銭鋳造の『銭吹き歌』であったともいわれ,1772年~1781年、石巻の斎太郎という踏鞴(たたら)踏み職人が、鋳銭場で踏鞴をふみながら歌っていたが、故あって遠島へ流罪となったとき,その銭吹き歌を漁師たちに伝えたとする説。

 

〇もともとは、前述の『気仙坂』という岩手県の祝い歌が、タタラ職人の作業唄である踏鞴唄(たたら唄)やその年の福を司る歳徳神(サイトク神)を祀る祝い唄に転用され、その「サイトクシン節」「サイタラ節」になり、さらに伊達藩の銭を作る鋳銭場である銭座のタタラ職人の暴動の罪で遠島に流されて漁師になった美声の職人「斎太郎」の伝説と結び付いて「斎太郎節」になったとする説。

 

〇 宮城県牡鹿半島,遠島 (としま) 地方で歌われていた櫓漕(ろこ)ぎ歌で、「さいとこ節」「どや節」「遠島甚句」などという説。

 

〇『サイドヤラ』とか『サイタラ節』とよばれていたものに『斎太郎節』の文字をあてたとする説。

 

出典ウキペディア 歌川広重 『六十余州名所図会 陸奥 松島富山眺望之略図』(江戸時代・安政期)

 

■その後の唄の発展

 

〇1925年(大正14)この『斎太郎節』は宮城県桃生(ものう)郡東名(とうな)(現:東松島市)の斎藤清次郎によって、のど自慢の会で紹介されます。

 

1927年(昭和 2年)ころ、それを聞いた東北民謡の父と言われる宮城県野蒜村出身の後藤桃水(1880~1960)が弟子の八木寿水と前述の三つの歌を巧みに構成・縮曲し、弟子の八木寿水は節回しを、後藤桃水自らは歌詞を補作し、今日の形に整えて発表。

 以来「海の代表曲」として広まっていきました。

 

日本民謡の父後藤桃水翁

 

 *後藤桃水は中学時代に尺八の小梨錦水(本名小梨 専蔵 1867 年:慶応3年 11月20日~1931年:昭和6年 3月4日 没。陸奥国仙台(宮城県 仙台市)出身。宮城県名取郡にある虚無僧寺・布袋軒に入り、普化尺八の名手であった黒沢照雲に師事。)に師事。

 1905年(明治38年)上京、東京・神田猿楽町に追分節道場(後の大日本民謡研究会)を開設し、日本各地に埋もれていた俚謡(民謡)を発掘し、1920年(大正9年)10月東京で第1回全国民謡大会を開催して成功を収め、『日本民謡の父』といわれた。

 

 *後藤桃水 25歳の時に普化宗の掟に従い虚無僧になって全国を托鉢修行し、この旅で、すぐれた郷土の歌を知り、拾い上げ、これを世間に広めようと全国大会を思い立ちます。しかし「百姓唄」では宣伝効果がないというので名前のことで頭を悩ましていました。そのころ、神田猿楽町に道場を持っていたが、たまたま裏庭で「ミンヨー、ミンヨー」と大セミが鳴きだしたので、桃水が全国大会で歌う唄のことを「民謡」と名付けたと伝わっています。

 

1931年(昭和6年)、「どや節」を「斎太郎節」の前につけ、「遠島甚句」を後ろにつける三部構成にしたものを、NHK仙台局の開局記念に発表します。

 

後藤桃水門下の我妻桃也(宮城県宮城郡出身。1916年(大正5年)11月15日 ~2009年(平成 21年3月1日)は1951年(昭和26年)日本民謡協会全国大会で優勝

 

我妻桃也は1953年(昭和28年)のNHK「素人のど自慢」全国大会で「斎太郎節」と「遠島甚句」を組み合わせた「大漁唄い込み」を披露して優勝し同曲を全国に広めた。原田直之氏は弟子である。

 

■松島

 松島は日本三景の1つに数えられ、仙台藩主・伊達政宗公「松島と厳美(*厳美渓は岩手県の磐井川沿いにある渓谷)が我が領地の二大景勝地なり」と評した景勝地で、湾内外にある大小260余りの諸島と湾周囲を囲む丘陵も含めた一帯のことを指します。

松島島めぐり案内図

 

■松島の島の数

 松島の島々は「八百八島」と形容されますが、島々の数については下記のように正確に把握されておりません。

 江戸時代に行脚俳人大淀三千風(おおよど みちかぜ)が編纂した『松島眺望集』では92。

 仙台藩が編纂した地誌『封内風土記』(1772年完成。著者は仙台藩の儒学者田辺希文。全22巻)では87。

 1910年(明治43年)の『松島公園経営概要』では240余。

 1965年(昭和40年)代頃に調査が行われ、松島の統一見解260余り。

 1981年(昭和56年)の『県立自然公園松島学術調査報告書』では230。

 松島湾を管轄する第二管区海上保安本部は128と把握。

 1991年の『松島町史(通史編2)』では、松島湾内の島々で名称のあるものが144、無名の島々が98の都合242あると記している。

 ただし、この数には、埋め立てられ、地震や自然の崩落によって島とは言えなくなったものがいくつか含まれており、岩礁を島の数として加えた場合、松島湾の島の数は約300になるだろうとも付記しています。

 

■松島を詠んだ歌

 

「松島や 雄島の磯に あさりせし あまの袖こそ かくはぬれしか」(源重之、後拾遺集)

見せばやな 雄島(をじま)のあまの 袖だにも 濡れにぞ濡れし 色は変わらず」(殷富門院大輔「千載和歌集」恋四884)

「いづる間も ながめこそやれ 陸奥の月 まつ島の 秋のゆふべは」

「心なき 身にだに月を 松島や 秋のもなかの 夕暮れの空」

「所がら 類はわけて 無かりけり 名高きつきを 袖に松島」

「松島や 雄島の磯の 秋の空 名高き月や 照りまさるらん」以上4句、伊達政宗

「松島や さて松島や 松島や」田原坊

「松島や 鶴に身をかれ ほととぎす」(河合曾良「奥の細道」)

 

■歌に詠まれた名所

 

 

〇瑞巌寺(ずいがんじ)

 伊達政宗の菩提寺として知られる国宝寺。正式名称を「松島青龍山瑞巌円福禅寺」と言い、現在臨済宗妙心寺派に属す。

 828年(天長5年)比叡山延暦寺第三代座主慈覚大師円仁が淳和天皇の詔勅を奉じ、3,000の学生・堂衆とともに松島に来て寺を建立し、平泉・藤原氏の外護を受けます。

 1636年(寛永13年)、雲居希膺(うんごきよう/うんごけよう)禅師は伊達忠宗の招請により奥州へ移り、松島の瑞巌寺を再興。

 東日本大震災では、山門近くまでは水が来ましたが、境内に水は入らず、避難所になりました。

 

〇小松原(こまつばら)

 瑞巌寺の前は海、後ろは山。瑞巌寺の住職であった雲居希膺禅師が、砂防林として植えたのが松原のはじめといわれている。

 

〇石巻(いしのまき)の日和山(ひよりやま)

 石巻市の旧北上川の河口付近に標高約60mの日和山がある。山の名の由来は石巻から船が出航する前に、この山に登って天候(日和)を観察したから。

 「その名も高い」と歌われているのは、江戸時代に松尾芭蕉が立ち寄ったことで有名になったから。

 

〇遠島(としま)とは

  石巻湾の南東に張り出す牡鹿半島突端の金華山付近には大小十の島々があって、これを俗に十島(としま)と呼ぶ。この十島にいつしか遠島(としま)の字があてられる。天気が良いと日和山から東の方に十島(遠島)、牡鹿半島や西に広がる松島の風景が眺望できる。

 

 

■エンヤーの意味

 「エンヤー(えんや)」は「えいや」が転じた言葉であり、力を入れるときなどに発する掛け声の意味合いがある。

 

 その語源は「曳」「えい」であり、「引きずる、引き寄せる」を意味する発音に由来すると考えられている。

 

 唄は続きます。

 

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前は海 サーヨー 後ろは山で

(ハ コリャコリャ)

小松原 トエー

あれは エーエ エトソーリャ

大漁だ エー

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