京都宇治の老舗抹茶スイーツ【伊藤久右衛門】

 

 

 ここ神奈川県にも「いかとり唄」「五反田節」「相模木挽き唄」「ささら盆唄」「大漁木遣唄」「だんちょね節」「チャッキラコ」「剣崎大漁節」「長持唄」「野毛節」「箱根籠かき唄」「箱根馬子唄」「三崎甚句」「三崎節」「栢山(かやま)地区の田植え唄」などの民謡が採譜されている。

 

<< ♪ 箱根八里は 馬でも越こすが 越すに越されぬ大井川 ♪ >>

 

と唄われる箱根馬子唄は神奈川県の民謡である。

 

 

■公儀御馬買衆

 毎年秋になると江戸幕府から公儀御馬買衆が、そして、諸大名からは「わき馬買」と呼ばれる軍馬買い入れの役人が派遣されていた。

 

 江戸幕府は軍馬購入のため、陸奥国・磐城国の刈田郡(かったぐん)宮村(現:宮城県蔵王町)から出羽国に出て、秋田県横手の馬市で仕入をしてから秋田県内を北上して、六郷(現、美郷町)~角館(かくのだて)~田沢湖東側の生保内(おぼない)を経由して国見峠(現、国道46号線、盛岡~秋田市間、岩手県雫石町、秋田県仙北郡田沢湖町経由)を越えて良馬の主産地、盛岡(南部藩:岩手県)入りするのが通例だったといわれている。

 

 

 この公儀御馬買衆は1625年(寛永2年)に開始され、1690年(元禄3年)を最後に廃止されたが、一行の人数は、御馬買衆2人と従者を含め50人に及び、軍馬の購入は例年2百頭前後で、11月には奥羽街道(又は奥州街道、陸羽街道とも。江戸日本橋~草加~古河 (こが)~宇都宮~白河~郡山~二本松~福島~仙台~一ノ関~花巻~三戸~浅虫~青森宿駅 69次の街道)のルートを経て江戸に帰ったという。

 1691年(元禄4年)4月、老中より、盛岡・仙台両藩の留守居役に対して、御馬買衆の派遣は中止するが、歳、毛色、性別を目録に記載して幕府に提出するよう求められ、目録を基に注文して馬を購入するようになっていきます。

 この仕組みを「御買馬」といい、1719年(享保4年)まで続き、毎年7-8疋が購入されていたそうです。

 このようにして、1692(元禄5年)から幕府の公儀御馬買衆が馬の産地盛岡まで来ることがなくなりました。

 そのため、南部藩では良馬を選んで毎年春秋の二回100頭~150頭もの御用馬を連れて江戸へ上ることになりました。

 岩手県南部藩の御用博労(ごようばくろう)が幕府へ御用馬を納める道中に唄った祝い唄である『南部駒(こま)曳き唄』がルーツとなり、牛馬の仲買商人である民間の博労が唄う「夜曳き唄」(『南部道中馬方節』)や『箱根馬子唄』へと伝播したといわれています。

 

出典 ウキペディア

 

 箱根では、馬子や駕籠かき(雲助)をしていた杉﨑長太郎、亀次郎兄弟が唄う馬子唄が有名で、「夜曳き唄」の節回しをまねて箱根馬子唄が出来上がったと伝わっています。

 「箱根馬子唄」は,こうした難所の多い環境や馬子たちが長い距離を移動する間に通ったいろいろな地域の歌などから影響を受けて,現在のような民謡として整っていったようです。

 

■馬子唄(「馬子曳き唄」)

 牛馬の売買・仲介をする商人のことを博労(馬喰)といい、古来より、馬の良し悪しを見る目利きのある人や馬の病を治療する人のことで、伯楽(はくらく)とも言った。

 

 16世紀に入ると、京都や鎌倉に伯楽座が出来、また、主要な町村周辺で馬市や牛市が開かれ、数多くの牛馬商人の伯楽が集まりました。

 この時期、牛馬の需要はまだ特定の階層に限られていましたが、駄送・耕作などに使役することが庶民の間にも広まる17世紀になると、各地の産地や市場町・宿場町に博労(馬喰)が生まれ、城下町には馬喰町や馬喰の宿泊する馬喰宿などができた。これら博労の多くは藩から鑑札を与えられていたという。

 

出典 ウキペディア

『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 十一 五十三次 箱根 夜中松明とり」

 

〇夜曳き唄

 「夜曳き」と言われるように、臆病(おくびょう)な馬の曳き移動は通行人のじゃまにならないように夜間に行われた。

 しかし夜間の移動は馬喰・博労にとっては心細いし馬は眠くなる。そこで、馬喰が夜に唄ったのは下記の理由によるといわれている。

1、寂しさを紛らせるため、唄うことで周囲の人たちに自分の位置を知らせるため。

2、道沿いの草叢から急に動物が飛び出して馬を驚かせないため。

3、大声で「夜曳き唄」を唄い、馬の眠気を覚ますため。

 

出典 ウキペディア

 

〇主要街道の駄賃付け馬子

 関東以西の主要街道の駄賃付け馬子または駄賃馬稼(だちんうまかせぎ)は、馬の背中に貨物や人を乗せて輸送に従事する職業のことで、その馬のことを駄馬、稼ぎ馬、荷馬と言い、輸送料金のことを駄賃といった。

 この駄賃馬稼は農民の副業的なものであったことから、その唄は博労の「夜曳き唄」に比べるとテンポが速く歯切れがよかった。

 これは、博労は十数頭の馬を移動させるので、ゆっくり歩くのに対し、駄賃馬稼は目的地へ早くつくのが仕事だけに、歩きも早く、従って、歩みに合わせ唄も早くなったのである。

 

 馬ではなく牛を追う場合は「牛追い唄」といい、岩手県の『南部牛追い唄』などが有名。

 有名な馬子唄と言えば、箱根馬子唄(神奈川県)、小諸馬子唄(長野県)、鈴鹿馬子唄(三重県)、室津郷馬子唄(高知県)が挙げられる。

 

出典 ウキペディア 三島宿 朝霧

 

■箱根八里とはどこのこと?

■東海道の宿場間の距離(日本橋から三島宿まで)

 1里は36町で3.93㎞(約4㎞)、1町は60間で約109m。

 人が1分間に歩く距離は約80mなので、1里で50分ほどになり、8里だと約7時間かかります。

 昔は1里ごとに土を盛り、木を植えて旅人の目印にしました。これを1里塚と呼びます。

 また,町を略記する時は「丁」を用い、丁場は宿場と宿場の距離を指し、長丁場とは長い旅程のことを言いました。

 

 旧東海道は、基点を日本橋にして西の京都を目指すと、以下のような宿場が現れます。

 それぞれの宿場間の距離を見てみると

1,品川宿(荏原郡:品川区)日本橋から区間2里

2,川崎宿(橘樹郡:たちばなぐん:神奈川県川崎市川崎区)品川宿から区間2里半

3,神奈川宿(横浜市神奈川区)川崎宿から区間2里半

4,程ヶ谷宿(保土ヶ谷区)神奈川宿から区間1里9丁

5,戸塚宿(相模国鎌倉郡:戸塚区)程ヶ谷宿から区間2里9丁

6,藤沢宿(藤沢市)戸塚宿から区間1里30丁

7,平塚宿(大住郡:平塚市)藤沢宿から区間3里半

8,大磯宿(淘綾郡中郡:大磯町)平塚宿から区間27丁

9,小田原宿(足柄下郡小田原城下:小田原市)大磯宿から区間4里

10,箱根宿(足柄下郡はふや本陣跡:箱根町)小田原宿から区間4里8丁

11,三島宿(伊豆国君沢郡:静岡県三島市)箱根宿から区間3里28丁
このようになります。

 

■旧東海道で特に旅籠の数が多かった宿場

 旧東海道沿いで、特に旅籠の数が多かった宿場は、七里の渡しの港があった宮宿(熱田宿)が247軒と断トツの第1位。以下桑名宿120軒、岡崎宿の112軒、四日市宿(98軒)、小田原宿95軒、浜松宿(94軒)、品川宿(93軒)、戸塚宿(75軒)、三島宿74軒、川崎宿(72軒)、草津宿(72軒)、大津宿(71軒)、程ヶ谷宿(67)大磯宿(66軒)、神奈川宿(58)平塚宿(54軒)、藤沢宿(45軒)、箱根宿(36)となっていました。

 

■箱根八里はどことどこのこと

 東海道を西に旅をすると、日本橋から24里35町(98.1キロ)にあたる10番目の宿が箱根となります。

 

 箱根八里とは、東海道五十三次の宿場の一つ、小田原宿から箱根宿までの4里8丁と箱根宿から三島宿までの3里28丁をあわせた道のりを指します。

 

 

 箱根関所の上方口御門を出たところに箱根宿があり、ここは箱根八里のちょうど中間地点にあたり、江戸から京へ向かう旅人は3日目の昼頃にこの宿場に到着し、昼食を食べて三島へ向かうという昼休みの場所でもありました。

箱根は天下の嶮と唄われ、この峠を越えるための交通機関として登場したのが馬と駕籠でした。

 

■本陣(大旅籠屋:おおはたごや)

 本陣は、大名宿・本亭ともいわれ、江戸時代に街道の宿場に置かれた勅使、大名、公家などの貴人が宿泊した建坪200坪程度の大旅籠で、主に大名の参勤交代の往復に使用されました。

 原則として表門、式台付玄関、上段の間がある点が一般の旅籠と異なります。

 利用者は1組貸し切りで、宿泊が重ならないように完全予約制とし、先約があって予約を断る場合には、宿場内の別の本陣や脇本陣を案内していたようです。

 ただし、天皇の使いである勅使や徳川御三家(尾張藩・紀州藩・水戸藩)は例外で、これらの予約は最優先とされました。

 東海道五十三次のうち、本陣軒数は浜松宿、箱根宿が6軒、御油宿(ごゆしゅく、ごゆじゅく:愛知県豊川市御油町)、小田原宿が4件と続きます。

 

出典ウキペディア 広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)金谷 大井川遠岸』

■大井川と川越(かわごし)

 箱根馬子唄に「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」とうたわれる大井川は江戸時代、江戸や徳川家康が隠居していた駿府城への敵の進軍を困難にする西の守りとして機能しており、橋を架けることや渡し船さえ厳禁とされていました。

 その代わりに、人の肩車や輿(こし)に乗せて渡河させる川越(かわごし)制度が設けられ、川会所(かわかいしょ)で川越銭を払い、大井川を渡りました。

 川会所は島田と金谷に設置され、それぞれ大井川を渡河する拠点の宿場町となりますが、洪水の際には川留め(通行禁止)となったため、島田宿と金谷宿、その周辺の宿は大変賑わったということです。

 この川越(かわごし)制度については、江戸や駿府城防衛という理由の他に、こうした川越銭や宿賃などの莫大な利益が目的の一つだったとも考えられているようです。

 

箱根の関所

 

入り鉄砲出女

■入り鉄砲

 「入鉄砲」とは、江戸に持ち込まれる鉄炮を規制し、江戸の治安を守るためのものでした。

 徳川綱吉によって『諸国鉄砲改め』が制定され、鉄砲を江戸に入れる際には、鉄炮手形を関所に提出させ、関所に備え付けられた「判鑑」で手形に記された老中の印鑑が真正であるかを確認します。

 更に鉄砲の所有者・挺数・玉数・出発地と目的地が手形の記載通りであるかを確かめた後に初めて通過を許しました。

 また、鉄砲などを隠す空間を作りやすい長持の検査も厳重に行われ、江戸時代には東海道の新居関、(正式名称は今切関所:いまぎれせきしょ:現、静岡県湖西市新居町新居に相当)がその厳重な監視で知られていました。

 なお、意外にも江戸からの鉄砲の持ち出しについては簡単な検査ののちに通過を許したとされています。

 

■出女

 この時代、旅に出る場合は「往来手形」「関所手形」が必要でした。往来手形は身分証明書のようなもので、百姓、町人の場合は庄屋・名主・檀那寺からもらい、藩士の場合は留守居役から発行してもらいました。

 出女とは、江戸を出る女性を取り締まったもので、江戸屋敷に人質として置かれた大名の妻女が自藩へと脱出し、人質としての意味をなさないことを防止するためであったといいます。

 女性が関所を出る際には女手形(別名「御留守居証文」)を提出させ、関所に備え付けられた「判鑑」で手形に記された幕府留守居の印鑑が真正であるかを確認します。

 関所を通るにあたって旅の目的や行き先、通る女性の人相、素性なども書き記されていたそうです。

 箱根の関所の場合は特に厳しく、女性の身体的特徴を専門に検分する人見女(髪改め女)が常駐し、出女の監視を行っていました。人見女の検査は厳重であり、髪の毛の有無や身の特徴、ホクロや妊娠の有無などについてまで吟味されたということです。

 更に女性に男装した疑いがあれば、男に対しても同様の検査が行われたとされています。これは通行手形の発行手続が男の方が容易であり、女が男の振りをして手形の発行を受ける可能性があったからということです。

 もっとも、江戸幕府は伊勢神宮参拝者や温泉湯治などを行う者に対しては「書替手形」と呼ばれる特別な手形を出す例があり、これを受けた者については予め幕府が身元を確認したものと看做して、より簡単な手続で済まされる例もありました。

 

 このように、関所では手形といわれる許可書をもっていないと通ることができず,もし関所を通らず脇道などからこっそり通りぬけたことが分かると,「関所破り」として厳きびしい処罰を受けました。

 この箱根関所も1869(明治2)年に歴史的役目を終え、廃止されました。

 

杉並木

 

■箱根峠にまつわる逸話

■笈(おい)の平

 「笈の平」は昔、「大平」と呼ばれていました。ある日の夕刻、東国での布教を終えた親鸞聖人が、4人の弟子を連れてここへ辿り着きます。このとき親鸞聖人は歌を詠まれます。

「病む子をば 預けて帰る旅の空、心はここに残りこそすれ」

 東国で布教し、せっかく大勢のわが子とも思う入信者を得ながら、十分に教化をせぬまま帰るその心残りをうたったものです。

 そして、4 人の弟子の1 人、性信御房に向かい『師弟打ち連れてみな上洛してしまったら、あとに残された東国の門徒はだれが導くのか。性信房よ、これより立ち帰って東国の門徒衆を教化してもらいたい。』

 聖人の急な申し渡しに、性信房は驚き、嘆き、悲しみます。しかし、聖人の門徒を思う深い慈悲の心を察すれば、従わないわけにはいきません。性信房が泣く泣く承諾すると聖人は喜び、かつて、師の法然上人と共に越後へ流されたときに刻んだ仏像に添えて、自分の身代りにと笈(おい:書箱)を性信房に手渡します。

 このつらい別れを偲び、それ以来土地の人は「大平」を「笈の平」と呼び変えました。

      

 『相州箱根山安置親鸞聖人木像略縁起』には「8月16 日、遠近の道俗馳せ集まり、我も我もと御名残(おなごり)を惜しみ、今世の拝顔今を限りと老若男女御衣の袖にすがり悲泣雨涙のありさま」とし、親鸞聖人が「恋しくば、南無阿弥陀仏と唱ふべし、我も六字の道にこそすめ」と1首お詠みになられたと記述されています。

 

■「神崎与五郎 東下りの詫び証文」

 三島説、箱根説、浜松説などいろいろあるようです。

 箱根八里は急坂を超えるため、坂の上下などに往来の人馬が一服できる甘酒茶屋が箱根東坂には9か所、13軒ありました。

 赤穂の浪人神崎与五郎則休(のりやす)は遅れて赤穂を出立、京から江戸へ向かいます。

 箱根路でのこと、馬方の丑五郎という男は安くするので馬に乗っていくよう迫ります。神崎は「まだ疲れていないから」と断ります。

 丑五郎は「侍が馬に乗るのが嫌だとはなんだ、やけに白いお前は侍でなく役者だろう」などと悪態を付く。神崎は「確かに馬に乗るのが嫌いなら侍は務まらない」と詫びる。丑五郎は「詫びるなら地べたに手を着いて謝れ」と言うと、本当に神崎は手を着いて頭を下げた。

 あまりに素直なので意外に思った丑五郎は、更に「謝り証文を書け」と言う。こんな奴と言い争っても仕方ないと思った神崎は懐中から矢立と紙を取り出して、スラスラと謝り証文書く。

 しかし丑五郎は漢字が読めない。今度は仮名で証文を書き直す。丑五郎は「かんざきよごろうのりやす(神崎与五郎則休)」という名前を「かんざけ(燗酒)のほうがよかろう、のり(海苔)がやすかろう」などとトンチンカンな勘違いをする。

 神崎の顔に唾を吐きかけて、丑五郎は店を出る。

 あまりに無礼な奴、斬りつけようとも思ったが、それが元で吉良上野介を討ち取ると言う大事が万が一にも露見しては同士の者たちに申し訳ないと、ぐっと我慢をし、そのまま江戸へと向かう。

 元禄15年12月14日、赤穂浪士は吉良の屋敷に討ち入り首尾よく吉良の首を討ち取って主君の無念を晴らし、翌年2月4日浪士一同は切腹する。

 

 このことを知った丑五郎は、あの時の神崎様は赤穂浪士のお一人であったに違いない。死んで冥土へ行ったとしても、神崎様は極楽、丑五郎は地獄で会えないだろう。神崎様の書いた詫び証文を五両で買って貰い、その金を元に坊主になって、江戸・泉岳寺へ向かう。

 泉岳寺の住持の許しを得て、丑五郎は罪障(ざいしょう)消滅のため義士の墓の廻りを掃除して生涯を送ったのでした。

 この話は、忠臣蔵の四十七士のひとり、神崎が志を遂げんと江戸に向かう道中での出来事でした。

 

■神奈川県の名所・旧跡あれやこれや

 昔も今も、神奈川県にはたくさんの名所旧跡、見所があり、車や交通機関を利用して日帰りが可能となっています。紙面の関係で一部割愛といたしました。

 

■見どころ 

国宝建築 円覚寺舎利殿

国の名勝 円覚寺庭園や建長寺庭園(鎌倉市)、三溪園(横浜市)、瑞泉寺(鎌倉市)、

重要文化財・史跡等 江島神社、箱根神社、箱根美術館、小田原城、名越切通、箱根旧街道、明月院(あじさい寺)

水族館 横浜・八景島シーパラダイス、京急油壺マリンパーク、新江ノ島水族館

動物園・植物園・遊園地・キャンプ場 よこはま動物園ズーラシア、野毛山動物園、横浜・八景島シーパラダイス、さがみ湖リゾート プレジャーフォレスト、青葉区のこどもの国、長井海の手公園・ソレイユの丘、青野原オートキャンプ場、旭区のこども自然公園

恋人の聖地 箱根彫刻の森美術館、横浜マリンタワー、横須賀美術館

温泉 油壺温泉、江の島温泉綱島温泉、鶴巻温泉箱根温泉、三浦マホロバ温泉、湯河原温泉、秦野温泉

寺社 鶴見の總持寺、川崎大師、横須賀の走水神社、鶴岡八幡宮、長谷寺、高徳院、大船観音寺、鎌倉宮、本覚寺、東慶寺(縁切寺)、成就院、伊勢原市の大山阿夫利神社、寒川町の寒川神社、江島神社

食べ処 横浜中華街、港北区の新横浜ラーメン博物館、三崎漁港、小田原さかなセンター

祭り 湘南ひらつか七夕まつり:平塚市

 

<<♪ 箱根御番所に 矢倉沢なけりゃ 連れて逃げましょ お江戸まで ♪>>

<<♪ 箱根番所と 新居がなけりゃ 連れていきましょ 上方へ ♪>>