(この手に掴むのは…)
祐樹は、手を空に翳した。何をどうすれば良いのか、自分にとって、ベストに働くのだろう。こういう仕事の所為か、平穏が怖い。何処までも続く思考という名のラビリンス。そこから開放される手は無い。きっと、この仕事が続く限り、いや、仕事から離れてもこの迷路から出る事はできないのかもしれない。
(『救える者を……救える力を持ちながら…見殺しにする……それで、満足なのか?…小僧…』…か)
祐樹は、たった、一年と少し前のことを、はるか昔のように思い返した。それを思いだすのは、随分と久しぶりだった。
何故、今頃……。
怖い。何処までも、続く深遠の闇に引きずり込まれるような気がする。どうする事もできない不安感。どうする事もできない虚無感。無力さと無謀さ、現実と虚実。何が真実なのか。何が正しくて、何が間違えているのか。相反する全ての力が、恐怖に繋がっている。
何が怖いのか判らない事が怖い。
自分の力量を読み間違えるのが怖い。
できる事はできる。できない事はできない。それを明確に判断しなければいけない。かかるのは、自分の命だけではない。
繁栄という虚栄の中で、ニュースにもならない事件が幾つも起きている。その幾つが『仕事人』によって処理されているのだろうか。幾つもの嘘の向こう側に、平穏という世界が広がっている。
誰もが狩人になれる。誰もが、自分の為だけの殺し屋になれる。ただその機会に恵まれる人が少ないだけだ。それはきっと、ちょっとしたきっかけで起きる。そこに正義は、絶対に無い。いかなる理由があろうとも、そこに正義が生まれる事など無い。全ては、その人の都合なのだから…。
「俺にどうしろっていうんだ…」
突然、非現実的な日常に叩き込まれた気分だった。祐樹は、肩を押さえつけながら、静かに話す男、結崎竜治朗に怒鳴った。
「どうも…ただ、お前に頼みたい事があるだけだ…」
「?」
ツーリング中におきたトラブル。それは、突然に起きた。軽快に走っていたバイクの前にトラックが飛び出してきた。それを避けるために道路脇にあった廃工場にマシンを滑りこませた。その後に何が起きたのかは覚えていない。いつの間にか、廃工場の建物中に引きずり込まれていた。映画の中でしか見た事の無い爆発が、いたるところで起き、断末魔に似た声を何度か聞いた。
立ち往生しているところをその男に拉致された。それだけだった。
(何が起きている?)
と、思ってみたところで誰も答えをくれるわけではない。
ただ、その男に押さえつけられたことで生きている事だけは確かだった。
「頼みって?」
「……聞けばでき無いではすまないぞ…」
「なんだよ一体…」
「…まぁ、どの道、やり直しの聞かないゲームだ……かけるのは命だ…」
「…莫迦じゃないのか?この法治国家でそんな事があるわけないだろう」
言っていて虚しくなる。既に、この現実は映画の撮影では語る事ができない。この錆びた鉄のような匂いがそれを示している。嫌な肉の焦げる匂いも。それらは、祐樹のいた世界でも体感する事のあるものだった。誰が止める。この非日常を。
「……反対側…柱の影に階段がある……そこを登ったら車がある…」
「俺、免許無いぞ」
「ゲームセンターと変わらんさ…」
「……(本気か……こいつ)」
「そこに、無事なら藤代夕菜というのがいる…」
「藤代夕菜…」
「ああ…助けてやってくれ…」
「助ける?」
「ああ……悪いが、選択の余地は無い…」
「えっ?」
「生き残りたければ、この日現実から逃亡しろ…使えそうなマシンは、上にしかない…それも…上から脱出するいがいは……」
「……無理だよ…」
「無理なんか何処にも無いんだ、するかしないかだけだ……自分のいまできる事を正確におこなう、それを繰り返すだけで、道は開けるものさ…」
「だったら…あんたが…」
「そうだな…俺には、無理だ」
「……人には出来るっていってか?」
「ああ…俺自身が生き残れる可能性が少ない…ほら…」
竜治朗は、一枚のカードを祐樹に差し出した。
「1059だ」
「生き残ったら、使えよ……俺が生きていたら返してくれ」と、竜治朗は力無さげに笑った。それなりの覚悟が感じられた。
「無理だよ…」
祐樹は、震えだした身体を自分で抱きしめながら呟いた。
「救える者を……救える力を持ちながら…見殺しにする……それで、満足なのか?…小僧!」
「…小僧じゃない…琢磨祐樹だ」
「そうか…琢磨祐樹か…生きてたら、飯をおごってやるよ…」
「結崎竜治朗だ…出れたら、この事は忘れろ…」
「………」
「いけ…」