母が末期癌を患って
入院した時、

父は既に他界しており
一人っ子の私は
相談相手も無くい。
それに気遣う母親の抑止があり、
主治医や担当医からは
私に特段何の説明もない。
それはそれで唯一の身内としてどうなのかとか思ったり。

ただ母の判断力が
モルヒネなどで鈍っていくこと、
せん妄が始まったりした事で、
私が動かねばと
担当医に現状の説明を受けた時は
既にステージⅣ末期の全身転移。

多発性骨転移。

これは病院の方針で
母は転院を迫られていた。

今思い出すだけでも
うっとなるが、
長年お世話になった病院に残りたい母、
急性期医療病院という形である以上患者に退院を迫らないといけない医師、
転院受け入れ先を探す私…

きっと皆んなが辛かった。

なかなか末期ガンの母を受け入れてくれる病院は見つからず。

ケースワーカーの人とも何度か相談して
母の臨む医療を受けられる病院探しに
診断書とCTを持っていくつの病院回ったかな?

あのあたりから
夜中に心臓が苦しくて眼が覚めるようになった。

あの頃mixiが流行ってて
それで知り合った内科医の方に母の事を相談していたりしていました。
私のこの症状を伝えたら
勝手に市販の睡眠剤とか飲まずに
心療内科に行って睡眠剤を処方してもらうようにと言われました。

その方はもう私が明らかにうつ病だと分かっていたのでしょうね。

うつ病歴長いです。

あの頃から何年経つのか。

理解されない事の方が殆ど。

理解される方が珍しい。

遊びに行ったり
飲みに行ったり
買い物行ったりできるのに
なぜ仕事ができない?

前回記事とかぶりますが、
出かけるだけで相当気合が必要だった。

まずは体をベッドから起こす事。
お風呂に入ること。
メイクすること。
着替えること。

様々な乗り越えることをやっと乗り越えて
外に出る。

それでも更に
時に人混みが苦しくて
空気が薄く感じたりした。

その先にやっと楽しみがある。

ドタキャンした事なんて
何度あるか。

友達との約束、
美容の予約、
病院の予約ですら。

外に出ても
友達に気を使わせるのが嫌だったし
その時ぐらいはなにもかも忘れたくて
笑ってた。

それは
周りの人には伝わらない。

今も伝わらないと思ってる。

自分への甘えじゃないかと葛藤する中で
自分に苛立ちながら生きている。

昔のように
週5+残業が当たり前
の環境で働けたらどれだけ良いか。

別にその労働条件が今となってはブラックとも思わないし
寧ろ働けるのなら働きたい。

それでもまあ一時的なもので治ったと思って
母が亡くなってから仕事をしていたある日。

自覚したのは
外貨の通貨を間違えた時でした。

仕事を終えてとあるNPOの活動に参加していた時に上司から電話がかかってきた。

明らかに自分でも集中力が無くなってきていることを感じて仕事をしていた中でのミスでした。

いつもと違ってデスクワークしていても
何か落ち着きがない。
集中力が散漫。

仕方なく外回りと言って
スタバでぼーっとしてたことが何度か。

ミスした時はもうダメだなと思ったっけな?

明らかにうつ病を自覚した時はその時でした。