【日本国記】 第二章 7 祇園祭9・日本とは世界で最も特殊な国である ―古くて新しい― 土方水月
7 京都の祭りは葵祭と祇園祭 祇園祭 9 疫隈とは
祇園祭の主役はスサノヲと合体した牛頭天王であったが、もとは武塔の神であった。
武塔の神は茅の輪を腰につけていないものを殺すという。それに対し、出雲に降り立ったスサノヲは、八岐大蛇を退治した荒ぶる神ではあったがそんな殺戮はしない。つまり、元は別の神であったが、同じ八坂神社内に祀られたことから同一視されるようになったのである。本来は武塔の神が疫神社に、スサノヲが八坂神社に祀られていたはず。
京都以外の地域にも祇園祭があり、備後国風土記逸文にでてくる疫隈國社(えのくまのくにつやしろ)にも元はスサノヲはいなかったのである。もともとは武塔の神だけが居た。そしてスサノヲも別の神社に祀られていた。古さから言えばスサノヲが古い。スサノヲが高天原から天下った出雲に近い備後国にはスサノヲをまつる神社はもともと多かった。
そこに武塔の神がやってきたのであった。どこから?
疫隈国(えのくまのくに)からである。
では、疫隈國(えのくまのくに)とはどこか?
備後国疫隈社は今では素戔嗚神社とされるが、本来はその摂社である蘇民神社と疱瘡神社が疫隈國社であったといわれる。その場所こそが武塔の神に滅ぼされた弟将来の屋敷であったという。武塔の神を祀るのはスサノヲを祀る本殿ではなく、摂社であり疱瘡神社と一体になっている蘇民神社であった。
武塔の神は蘇民の神であった。蘇民とは蘇の民である。蘇我氏の蘇でもあるが、蘇の民とは茅の輪をつけていないものを滅ぼす神を信仰する民である。つまり、過ぎ越しの祭を行う民であった。
疫隈國はイスラエルか?
過ぎ越しの祭はエジプトの奴隷となっていたユダヤ人の出エジプトに関わる話である。もしそうであったとしても、なぜに備後国なのか?それは疫病が流行ったのが備後国からであったからともいわれる。コロナ過で話題となった疫病退散の九州のアマビエは備後にも伝承される。
蘇民将来の話は備後国にあった話ではあるが、それよりも昔はもっと南にあった話のはず。大洪水があったといわれる12,500年前からのような古い伝承ではなく、もっと新しい伝承である“蘇の民”が日本にやってきたころの話のはず。
過ぎ越しの祭を行う民は、エジプトからカナンの地にやってきて建国し、さらには国の滅亡の後には失われたイスラエルの10氏族とも呼ばれるようになり、聖書にあるように散り散りになった彼らは東にある恐ろしい東海の果てにある島に向かって東へ東へと移動した。
彼らは秦に滅ぼされた斉の民ともいわれ、B.C.3世紀にやってきた。AD3世紀には魏に滅ぼされた呉の民としてやってきた。渡来した彼らは「くれはとり」とも呼ばれた。呉機織でもあり呉幡織でもあり呉秦織でもあった。後には幡織(はたおり)とも太秦とも服部とも呼ばれた。
呉の太伯の末裔ともいわれる姫氏(熊氏)は勾呉(くれ)とも呼ばれた。九州の熊本の熊(球磨、隈、久那、狗那、狗羅、久良、久羅、倉、鞍、黒、クロ)でもある有明海沿岸に渡来した彼らは、倭でもあったが、ヤマトでもあり、クナでもあった。
彼らはB.C.3世紀とAD3世紀にやってきたといわれ、魏志に書かれた三国時代魏によって滅ぼされた勾呉(姫氏・熊氏)の末裔でもあり、秦や斉の末裔でもあったともいわれる。
そして疫隈國社(えのくまのやしろ)とは。
つづく