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前回は、江藤淳が、村上春樹と村上龍はあくまでも「サブカルチャー」であり「カルチャー」にはなりえていない、という言説を紹介し、江藤の「サブカルチャー」そして「カルチャー」の定義に言及しました。
 
ところが一方の吉本隆明は江藤のそういった「カルチャー」「サブカルチャー」の定義の違いをふまえて、応答しているようには見えないのです。吉本の話の進め方はこうです。
 
両村上の出現は、前の世代の大江健三郎と中上健次を「古典のほうに一歩追いやった」、「押していった」とし、両村上を評価します。たとえば村上春樹の『ノルウェイの森』を同時期の大江の『懐かしい年への手紙』と比較して、「『ノルウェイの森』のほうがはるかにいい」と。
 
次のような発言をみると「絶賛」といっていいでしょう。
 
(引用)
吉本:『ノルウェイの森』は、新時代の恋愛小説だと考えます。新時代の恋愛みたいなものの鮮やかな描写があるような気がするんです。いちばんかいつまみやすいのは、たとえば永井荷風の時代だったら、鳩の街であったり吉原であったりというのが性の行き交うひとつの場面だとすると、吉行さん(吉行淳之介のこと:筆者注)あたりまでは、風俗的には変化はあっても、そういうところが、性の場所としてあるわけですね。
そうすると、村上春樹が描写している性の場所は、いまのソープランドといいましょうか、歌舞伎町といいましょうか、そういうところの性の風俗です。性交よりも性交じゃないことで性が複雑になっているみたいな、つまり性交としては不可能な恋愛を主人公たちはしているわけです。恋人が精神異常であったりとか、不感症であったりということで、正常な性交はできないで、正当じゃない性行為で、不可能な恋愛みたいなものをとても複雑にして成り立たせています。性の風俗の変遷だけとってきても、かつてない複雑な、本当は性も不可能だし、愛も不可能なはずなのに、しかしそれが複雑なニュアンスで、一種の新時代の恋愛小説の典型になっているみたいな、それがそんなに通俗的なことはなくて成り立っていると思うんです。
……
これを江藤さんのようにサブ・カルチャーというふうに見るか、いや、カルチャーっていうのはこういうふうに変わっちゃったんだよと見るかは、僕は重大な岐路のような気がいたします。
 
(引用終わり)
 
私は基本、所謂「ベストセラー」は読まないのですが、この対談を読んだ当時、まだ若かった私は、「吉本隆明がそこまで言うなら、しょうがない、古本屋で買って読んでみるか」と『ノルウェイの森』を求めて梅田まで出かけたことを覚えています。それ以降、村上春樹の長編小説は最新作『騎士団長殺し』を除いて殆ど全て読むことになるのですが。
 
 
前回の記事に対するコメントとして、ある方から「文学のファッション化」という御意見をいただきました。村上龍の登場以降、「文学のファッション化」が進んで現在に至るという、これは非常によくわかります。まるで流行のファッションのように次から次へとその時流行の小説が消費されていきます。その現象は明治時代から存在するのでしょうが、「芥川賞」という権威ある賞を獲得した本でも、そして受賞当時は話題になったものでも、その流行が過ぎ去ると、誰も顧みることはない。失礼な言い方かも知れませんが、過去20年の芥川賞受賞作をみて、そうなってはいないでしょうか。
 
そういった意味では、村上春樹の小説は過去30〜40年にわたって売れ続け、読まれ続けている、と言っていい。
 
そして吉本隆明は、はっきりと「カルチャーっていうのはこういうふうに変わっちゃったんだよ」という立場に立つのです。
 
 
 
 
 
つづく
 
 
 
 
 

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