熊野市は、三重県南部に位置する市です。
三重県の南西部、和歌山県との県境に近く、新宮市など
和歌山県東部との結びつきも強い地域です。
東側は熊野灘に面しており、海岸線の北部はリアス式海岸で
日本の快水浴場百選の新鹿海水浴場などがあります。
面積の約88%を森林が占めており、世界遺産の熊野古道
(紀伊山地の霊場と参詣道)には海外からも多くの観光客が
訪れます。
熊野市の廃校休校巡りは、2011年6月25日に訪れて以来、
おおよそ10年振りです。
当時の記事は⇒ こちらへ
今回は、ほぼ前回と同じコースを辿り、直近の校舎の姿を
写真に収めてきたものです。
具体的には上図の8校となります。
10年前と同様に、未明に大阪を出発、国道169号を南下、
東熊野街道(国道309号、国道42号)を経て大泊町、さらに海岸沿いに
脇道を折れて磯崎町に着いたのは午前7時でした。
津波避難場所を示す看板には旧泊小学校とあります。
石垣の手摺に熊野文化圏教育センターの看板。
石垣の上に顔を出した校舎
船のマストのような白亜の校門は劣化していませんでした。
近年塗装しなおしたのでしょう。。
校庭から撮った校門
目の前に熊野灘の内海が広がっています。
天候は曇り、冬場でもあり前回のような快晴でなかったため、
青い海原が見れなくて残念。。
3階建ての鉄筋校舎は、壁面の黒ズミが目立ってきています。
正面玄関の近景
玄関の壁には、イラスト付きの大きなパネルが掲げてあります。
裏には泊小学校の表札が隠れているのでしょう。。
校庭の様子
石垣で囲まれた校庭は、山の斜面に建つ民家が近接しており、
圧迫感があり決して広くはありません。
海岸沿いの小学校や分校の校庭はこのようなものでしょう。。
泊小学校(2001年休校)
国道から海岸へ下りる狭い道路しかなくアクセスが良いとは言えませんが、
目の前に熊野灘が広がる良好なロケーションが魅力です。
児童減少により、子供らは熊野市街の木本小学校へ通うことになりました。
市内の学校の中で分校以外で閉校になった最初の学校だったようです。
1987年(昭和62年)の全校児童は38名でした。
当時から大きな校舎を持て余すほど、少人数だったのですね。。
小学校跡記念碑等は見当たりませんでした。
国道311号を北上、隣の波田須町に入ります。
すでに休校となって久しく、実質的には廃校同然なのに、沿道の
バス停は現役校を思わせるかのように立っています。
コンクリートのスロープを上っていきます。
コンクリート塀に刻まれた校名
右手前に体育館、奥の赤い屋根が校舎です。
体育館の全景
さらに石垣のスロープを上ります。
校舎の全景
校舎前は雑木が邪魔をして玄関まで進むのも大変です。
玄関の右側
平屋校舎の窓はサッシになっていますが、カーテンは破れて
ボロボロになっていました。
校庭の遊具1
校庭の遊具2
校庭の遊具3
校庭の様子
新鹿(あたしか)小学校波田須分校(2005年休校)
波田須は、熊野灘に面し徐福伝説が残る魚村です。
休校中ですが、施設を維持している様子もなく実質的には廃校同然です。
コンクリート塀の表札は、波田須小学校とありますが、最後の1年間は
波田須分校だったようです。
1987年(昭和62年)の全校児童は、32名でした。
2013年(平成25年)から2014年(平成26年)にかけてTOKYO MXなどで
放映されたP.A.WORKS制作のテレビアニメ「凪のあすから」は、
波田須駅や波田須分校が風景のモデルとして登場、多くのファンが
聖地巡礼に訪れるそうです。
引き続き国道311号を北上、新鹿(あたしか)港の近くに
旧新鹿中学校の校門が残っています。
校門の前では山茶花が迎えてくれました。
花弁がいっぱい地面に落ちてピンクの絨毯のようです。
椿と山茶花は良く似ていていますが、花の落ち方に特徴があります。
山茶花は花弁が落ちますが、椿は花首が落ちるのです。
その昔、「首が落ちるので縁起が悪い」と、椿は武士に嫌われていた
そうです。
校庭の奥に白い建物が見えます。
重機によって集積された瓦礫はどこから出てきたものでしょう。。
かつて存在していた建物を解体したのかもしれません。。
校舎は鉄筋3階建てですが、こじんまりとした感じです。
校舎の近景
中学校にしては小規模な校舎ですね。。
地元の方に聞いたところ、空地となった高台には、別の鉄筋校舎と
講堂が連なって建っていたそうです。
校庭の様子
穏やかな新鹿湾が目前に迫っています。
錆びた朝礼台
新鹿中学校旧校舎
2012年(平成24年)1月から旧新鹿小学校の場所に、新しい校舎(新鹿小中学校)が
できたため、子供らはそちらへ通っています。
小学校と中学校は1つの屋根の中に隣接され、9年間同じ校舎で
学ぶこととなりました。
ただし、統合後も児童少子化により厳しい現実となっています。
というのも、1980年(昭和55年)では、新鹿小学校:156名、新鹿中学校:90名の
児童・生徒が在籍していましたが、新鹿小学校は周辺3校を、
新鹿中学校は荒坂中学校を統合したにもかかわらず、2017年(平成29年)には
新鹿小学校:29名、新鹿中学校は:11名に縮小しているようです。
旧校地では、奥の小さな鉄筋校舎だけが取り残されたように佇んでいます。
校門に散る花弁は、子供らを見守ることも出来なくなった山茶花の
涙かもしれません。。
新鹿海水浴場
「快水浴場100選」に選ばれた、新鹿湾に広がる波穏やかなビーチです。
当日は晩秋でしたが、砂浜は綺麗に保たれていました。
青く透き通った遠浅の海と白い砂浜が人気を呼んで、シーズンになると
多くの人で賑わいます。
海水浴場の奥、丘の上に建つ白い建物が、先ほど立ち寄った
新鹿中学校旧校舎です。
新鹿湾に沿って国道を北上、遊木(ゆき)漁港に到着しました。
遊木は、熊野灘に面するサンマ漁が盛んな漁村集落です。
用水路を山側へと辿っていくと石垣の上に校舎が見えてきます。
集落の奥に位置する小学校跡です。
立派な門標が残っています。
山から海へ向かって立つ鉄筋3階建て校舎です。
校舎の全景
校庭の様子
校庭の片隅に並ぶ遊具
吊り下げたカラフルなタイヤは、ブランコのように乗って遊ぶのでしょう。。
掲揚台の間には、コンクリートの投的板が。
朝礼台の奥に滑り台とジャングルジム
バスケットが無くなってバックボードと支柱だけになっっています。
ユぐの隣に墓石のような碑が建っています。
開校百年の記念碑です。
1979年(昭和54年)建立ということは、
1879年(明治12年)開校。。
遊木(ゆき)小学校(2013年休校)
休校扱いの為、解体されずに残してありますが、実質的には
廃校です。
子どもらは、新鹿小学校(2012年新設)に通っています。
1987年(昭和62年)の全校児童は66名でした。
当時の新聞は、休校式の様子を以下のように伝えています。。
「多くの地域住民が出席し、創立以来134年の歴史に幕を下ろした。
1950年代までは児童180名を超えていたが、過疎高齢化で2005年は
20名にまで減少していた。今年度は1年生が1名もおらず、同校への入学を
希望する新1年生もいなかったことから、保護者らが会合を重ねた結果、
休校が決まった。
この日の休校式には地域住民約150名が出席。卒業生1名、在校生11名と
一緒に校歌を歌った。サクラが咲き始めた校庭では記念撮影して名残を惜しんだ。」
トンネルを越えて二木島(にぎしま)町に入ります。
二木島集落と川を隔てた向かいに休校舎が残っています。
コンクリートの校門に文字が潰れかけた門標に長い歳月を
感じます。
長細い校庭の奥に建つ鉄筋校舎
玄関の近景
校庭からは玄関横の階段を駆け上って校舎へ入ります。
記念写真もこの階段に並んで撮ったようです。
川向いから撮った校舎
平地が少ないため、川渕の狭い敷地に建っています。
校庭の様子
海が近いのに浜辺が無いためプールが設置されてあります。
開校百年碑
荒坂小学校(2011年休校)
休校後、児童は遊木小学校へ通うこととなりましたが、
遊木小学校も2013年(平成25年)3月31日に休校となり、
2013年4月以降、新鹿小学校(新設)へ通学することになりました。
1987年(昭和62年)の全校児童は、67名でした。
JR紀勢本線、逢神坂トンネルを抜けた丘の上に校舎らしき建物が見えます。
実は前回も気にはなっていたのですが、道程が分かりにくく諦めていました。
今回は、再挑戦してみました。
荒坂小学校から二木島漁港を通り抜け、JRガード下を潜り、急な坂道を
駆け上って辿り着きました。
クリーム色を基調とした立派な鉄筋校舎です。
聞けば、荒坂中学校とのことです。
隣の体育館もしっかりとした造りです。
玄関の近景
校庭の様子
荒坂中学校(2014年休校)
まだまだ現役と変わらぬ立派な校舎です。
1987年(昭和62年)には111名の生徒が在籍していましたが、
過疎少子化により、新鹿中学校への統合に伴い休校となりました。
最後の生徒はわずか9名でした。
引き続き国道311号を進み甫母(ほぼ)町に入ります。
甫母分校は集落に最深部に位置し、災害時避難場所にしてされています。
家屋が密集した漁村集落です。
用水路の端の狭い道を登っていくと、奥の高台に校舎が見えました。
分校へ続く細い道を振り返って撮った写真
原付バイクでも腕に自信のない方はお勧めできません。
校舎が近くに見えてきました。
右の正門には本校が刻まれており、
左の正門に分校が刻まれています。
こちらは苔生して緑色になっています。
小さな漁村ですが、校舎は2階建て鉄筋校舎です。
1990年(平成2年)に改築されており、古びた感じはありません。
玄関の表札
艶やかで明瞭な表札は、正門のとは対照的ですね。
校庭の様子1
平地が少ないため、山々が迫っています。
校庭の桜が咲く頃は一段と美しい光景でしょうね。。
校庭の様子2
漁港の方向を撮ったものです。
二木島湾が顔を覗かせていますね。。
校庭の周りに並ぶ遊具
遠く海を眺めながら、シーソーに揺れるのも気持ちよさそうですね。。
タイヤを埋め込んだ跳び箱
錆びた朝礼台
今回の廃校休校巡りでは頻繁に登場していますね。。
荒坂小学校甫母(ほぼ)分校(2002年休校)
甫母町は人口200名に満たない小さな漁村集落です。
休校といっても実質的には廃校です。
過疎少子化が進み、子どももいないと思われます。
分校の沿革をみると、
1876年(明治9年)開校。
1956年(昭和31年)校舎改築。
1970年(昭和45年)講堂新築。
1990年(平成2年)校舎改築。
2002年(平成14年)休校。
本校は遊木小学校へ統合、近隣の沿岸部では
新鹿小中学校のみとなっています。
熊野灘のリアス式海岸
人を寄せ付けない鋭い断崖が周りを覆っています。
(前回も同じ光景を撮りましたね。。)
引き続き国道を進み熊野市の辺境、須野町に着きました。
須野町は、尾鷲市と接する市内で最も人口の少ない町で10名に
満たない人口です。
集落の中に、講堂らしき建物が見えます。
下りて行くと、敷地の傍には川が流れており、小さな橋を渡り
校庭に入ります。
講堂の近景(側面)
講堂の全景
外観は老朽化が進んでおり、物置のようです。
内部の様子1
内部の様子2
資材などが演台にもたれるように置いてあったり、雑然としています。
校庭から撮った講堂
校舎は解体済みのようです。
周りには分校跡を示す石碑等は見当たりませんでした。
分校の傍の海岸
荒坂小学校須野分校(1969年休校、2004年廃校)
沿革をみると
1960年(昭和35年)校舎新築。
1962年(昭和37年)講堂新築。
1969年(昭和44年)休校。
2004年(平成16年)12月31日廃校。
子供らが消えてどれくらいの歳月が経つのでしょう。。
限界集落に聴こえてくるのは、打ち寄せる波の音だけでした。。