柏崎市(かしわざきし)は、日本海に面した新潟県のほぼ中央に位置しています。
市街地から離れると豊かな田園が広がり、市域の一部は佐渡弥彦米山国定公園に
指定されています。
2007年の新潟県中越沖地震では最大震度6強を記録するなど大きな被害を受けました。
JR柏崎駅
柏崎市の代表駅で信越本線、越後線が運行されています。
柏崎市街から国道353号を南下します。
野田(のた)交差点付近に閉校となった校舎が残っていました。
黒く染みついたタイル張りの塀に、往時の表札がありますが、
銘板と類似色の文字はハッキリと見えません。。
手前と奥に校舎が2棟あり、T字型に建っています。
雪囲いの羽目板が残ったままですね。。
正面玄関の校章
「堅」という文字ですが、校名とは異なります。
何か由来があるのでしょうが、なぜ「堅」となっているのか不明です。。
PS)読者の方から、臣は田であること、校章の漢字は「野」の異体字であることを
ご教授頂きました。
3階建ての鉄筋校舎は、ベランダ付きで中央に時計塔がある
近代的な校舎です。
1988年(昭和63年)に建てられた校舎に古びた感じはありません。
校舎裏は校庭が広がり開放的な雰囲気となっています。
校地の隅に集約された門柱と閉校記念碑
門柱は別の場所にあったのでしょうが、校舎建替または道路拡幅等で
移設されたものと思われます。
門標はさきほど見たものよりハッキリとしていますね。
閉校記念碑の表側は校歌、裏側には沿革が記されています。
1874年(明治7年)開校、138年の歴史に幕を下ろしました。
「堅」は一文字もなく、この沿革史からは謎を解明することは
できませんでした。。
野田(のた)小学校(2012年閉校)
市街地に近い5kmほど北方にある新道小学校への統合に伴い
閉校となりました。
1991年度の全校児童は76名でしたが、閉校時は22名に減少、
過疎少子化により統合を余儀なくされました。
校舎は、市民から寄贈された民俗資料、歴史資料、絵画、工芸品、
自然資料等の収蔵施設として利用されています。
野田交差点から県道25号を東へ進み久米地区に入ります。
愛郷溢れる看板が出迎えてくれました。
さらに進むと、山裾の田園に溶け込んだ木造校舎が見えました。
旧校舎の校庭はマレットゴルフ場として綺麗に手入れされています。
マレットゴルフとは、木槌のようなクラブで楽しむパターゴルフのような競技です。
地域振興策により、一帯は「ふるさと公園」として整備されました。
旧校舎には食堂も入っているようです。
木造校舎の案内看板に、地元の方々の校舎への愛着と郷愁が感じられます。
長野県飯田市の旧木沢小学校を訪れた頃を思い出しました。。
木造校舎をウリにしているだけあって、期待に違わず立派な校舎です。。
正面玄関の近景1
旧校舎は別俣農村工房(田舎の学校「きらら」)として活用されています。
古い農具や生活用品等が展示してあり、懐かしい農村文化を体験し、
自然と村人との結びつきを感じられる場となっています。
正面玄関の近景2
玄関屋根から2階屋根にタラップが掛けてありました。
タラップ越しに年季の入った校章が見えます。
校名を知らなければ、別俣とは読めないでしょうね。。
2005年閉校後、市教委の方針により解体撤去の予定でしたが、
村人たちが郷土のシンボルであり、愛着の籠った校舎の存続を
訴えて解体の危機を乗り越えたそうです。
その後、建物の耐震補強工事を行い、消火設備なども整えられました。
2011年には「ふるさと公園」の一施設として整備されています。
隣のアカマツとの相性もピッタリですね。
公園の庭に少年のモニュメント
奥に体育館が建っています。
学校跡の石碑
裏面に記された校歌
別俣小学校(2005年閉校)
1873年(明治6年) 閉校
全校児童はピーク時(1941年)には253名いましたが、
2000年に入ってからは40名を割り込み、閉校時は20名まで減少しました。
(中学校は1990年に廃 校)
過疎化に伴い閉校となった校舎は農村体験交流施設、
校庭はマレットゴルフ場として活用されています。
私の知る限り、現存する数々の木造校舎の中でも、良好な状態で保たれている
大変美しい校舎ですので、これからも永く残して頂きたいと願います。
国道353号に戻り引き続き南下して行きます。
女谷(おなだに)地区の沿道に伝統芸能のデカい看板が目を引きます。
綾子舞とは、約500年前から伝わる古典芸能で女谷が発祥の地とされています。
初期歌舞伎踊りの面影を色濃く残しており、芸能的に価値が高いことから、
1976年(昭和51年)に国の重要無形民族文化財に指定されました。
毎年、9月第2日曜には、綾子舞の現地公開が行われているそうです。
さて、校地に入って行くと石積の門柱に、擦り減った表札を見付けました。
奥に見える入母屋造りの建物が校舎でしょうか。。
かつては、小学校の鉄筋校舎が建っていましたが解体されたそうです。
跡地に「綾子舞会館」という施設が建っています。
振り返ると、広大な校庭の奥に赤い屋根の建物が2棟見えます。
調べたところ、かつては鵜川中学校の校舎と体育館だったのですが、
1991年、中学校の閉校後は小学校が使用していたとのことです。
左側の校舎の白っぽい壁は、トタンで補修していますが、往時はもっと
長く続いていたそうです。
見応えのあるのは木造体育館です。
ムカデ足のような支柱と基礎がレトロですね。。
人が壁に手を当てて必死に支えている感じに見えますね。。
玄関の戸口には除雪用の梯子やシャベル、その他資材が
無造作に置かれ雑然としています。
屋根の壁もボロボロになっていました。
倉庫として利用されているようです。
体育館の裏側も鋼材で支えてありました。
学校跡を示す石碑
裏面に記された校歌
鵜川小学校(1995年閉校)
1874年(明治7年)開校
かつて中学校が併設されていたこともあって校地がとても広大に
感じられました。
1991年度の小学校児童は13名、中学校の最後の生徒は4名でした。
綾子舞の伝統芸能とともに木造校舎も永く続くことを願います。。






































