私がかつて訪城した約25城の「模擬天守」を順次お届けしています。

 

前回のブログでも記載しましたが、今や市町村のシンボルで市民権を得た状態で聳えている等という理由で、「模擬天守」を採りあげました。そして「模擬天守」について以下の分類があることも簡単に纏めました。

 

お城に「天守」があったものの、現在城域外のかなり違う場所に「天守」が建てられている場合

②お城に「天守」があったことが絵図で描かれているが、その絵図とは全く違った形状の「天守」が建てられている場合

③お城に「天守」があったものの、「天守」の形が絵図や発掘物等何もなく判らない場合

④確かにその場所にお城が有ったと思われるものの、「天守」があったという史実が無い或いは確認されていない場合

⑤お城が有ったという史実が全く無い或いは確認されていない場合(今回のシリーズではこれは割愛します)

 

江戸時代に「藩庁」だった「お城」、本日お届けするのは、「浜松」(静岡県浜松市)の模擬天守です。

 

天守曲輪の南東側から、大きな石落とし

 

「浜松城」の前身は「曳馬城」で、城内に包含されていて、現在の「東照宮」辺りです。

 

「徳川家康」が1570年に入城以降は「浜松城」と改称し、「堀尾家」が城主の時にはお城の整備拡張が行われました。関ヶ原の戦い以降は譜代大名の居城となり、「桜井松平家」「水野家」「高力家」「大給松平家」「太田家」「青山家」「本庄松平家」「大河内松平家」「井上家」等が5万石前後で入城して、城主は目まぐるしく替わり定着しませんでした。

 

ただ、当城主の多くが、江戸幕府の「老中」等の重役に抜擢され、「出世城」とも言われました。特に有名なのは、19世紀の初めに「天保の改革」を推進した「水野忠邦」で、彼は老中に成りたくて、敢えて収入の良い「唐津城」から当城への転封を希望して城主となりました。

 

南側の清水曲輪越しにのぞむ、右は復元「天守門」

東側からのぞむ「天守門」と「模擬天守」

 

「浜松城」の天守は、17世紀中頃までには無くなったようですが、「天守」に関する資料がなくどのような姿をしていたか判らないそうです。しかし、野面積みの「天守台」及び「付櫓」があったであろう「櫓台」だけが残されています。

 

東側から見上げる

 

「天守台」は、「野面積み」の古い形式ですが、その周囲の石垣には、平べったい石を緩く横へ並べる「布積」と呼ばれる手法の「野面積み」が見られます。現在の「模擬天守」は、天守台の2/3しか使用されておらず、こじんまりとした姿になっています。

 

天守曲輪南側から

天守曲輪の石垣の上部は「布積み」

 

先日発売された「名城の石垣図鑑」(小和田哲男氏監修、二見書房)にも、「野面積み」「布積み」等の解説がされています。

 

「名城の石垣図鑑」(小和田哲男氏監修、二見書房)

 

その上に建てられた現在の「模擬天守」は、天守台より規模を縮小して1958年(昭和33年)に再築されたものです。望楼型三層四階、一階は「下見板張り」と「石落とし」が目立つ天守で、コンクリート造りとなっています。分類は上記③の「模擬天守」で、「丸岡城」を参考に再築されたそうです。

 

天守門脇(天守曲輪東南)から

西南側から

 

次回ブログでは、「郡上八幡城」(岐阜県郡上市)の模擬天守をお届けします。

 

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