「武田勝頼」や「織田信長」に仕え、その後「徳川家康」の家臣となった「小笠原信嶺」は、「酒井忠次」の息子を養子として迎え入れて「小笠原信之」と改名しました。

 

「信之」の子孫は、「本庄城」から「古河城」の領主となりましたが、1691年に越前国「勝山城」2万2,700石へ入城してからは幕末まで続きます。

 

「勝山城」(福井県勝山市)は、戦国時代に「柴田勝家」の一族が築きますが、江戸時代に入り「結城秀康」の支配下となり「松平直基」が封じられ、その後勝山は一時期天領となります。そして天領後に入ったのが「小笠原信之」の系統の「貞信」でした。

 

「勝山城」は、後述する模擬天守が建つ「勝山城博物館」ではなく、九頭竜川の河岸段丘の上に建てられたお城で、その西側に「七里壁下」と呼ばれている河岸段丘の遺構が見られます。

 

「勝山城博物館」(模擬の天守、小天守など)

毘沙門下の七里壁下(九頭龍川の河岸段丘)

「本丸」には、天守台がありましたが天守が建っていたかどうかは判りません。また、北側には「隅櫓」が建っていたようです。現在は、市役所や市民会館となっていて、その前には「勝山城跡碑」が立ち、「天守台」の石垣が一部残ります。

 

越前勝山城の城内図

勝山城址の碑

天守台跡と勝山城跡碑

勝山城天守台脇(現市民会館)

本丸跡(現市民会館)

「二の丸」は、「本丸」の東側にあって、そこには「御殿」と「藩庁」が建てられ「隅櫓」が二基、「大手門」が構えられていました。現在は、教育会館と公園になっています。

 

二の丸跡(現中央公園) 

本丸跡から二の丸跡(現教育会館)

 

「三の丸」は、「本丸」の南側に位置し、「南馬出」があったそうです。そして更に南側には、「家中屋敷」が拡がっていました。

 

南馬出跡(現銀行敷地)

 

周囲には、小笠原家菩提寺で歴代廟所がある「開善寺」や、藩校「成器堂」の講堂であった建物が「神明神社」の社務所として移築されています。

開善寺(小笠原家菩提寺で歴代廟所) 

旧成器堂講堂(藩校の講堂で1841年築、神明神社社務所)

城下は、九頭竜川の河岸段丘跡「七段壁下」東側に拡がり、特に「本町通り」に沿って、町家や土蔵の並ぶ街並みが城下町らしい風情を残します。その通りにある、料亭「板甚」は、土蔵造2階建、屋根は切妻桟瓦葺で、蔵座敷が国登録有形文化財に指定されています。

 

料亭「板甚」(蔵座敷が国登録有形文化財、土蔵造2階建、屋根は切妻桟瓦葺)

本町通りに並ぶ町屋 

本町通り沿いの蔵

 

「勝山城」跡から南東へ約3.5㎞の所に、「勝山城博物館」があります。こちらの「勝山城」は、勝山出身の「多田清」氏が私財を投じて建築したお城で、史実とは関係なく築城された模擬の「天守」「小天守」「渡櫓」風の博物館です。天守閣風建築では日本一高く57mもあり、石垣には、九頭龍彫刻が刻まれていて迫力があります。

 

勝山城博物館の模擬天守・小天守・渡櫓

石垣に刻まれた九頭龍彫刻

模擬天守からの眺め(勝山市内方向)

 

またそこから北方向に約1.8㎞の場所には「深大寺」があります。そこも前述の勝山出身の「多田清」氏が建てたお寺で、奈良の東大寺を凌ぐ鉄筋コンクリート造りの「大仏殿」の中には、鋳造物としては世界最大の「越前大仏」が鎮座し、両脇には脇待仏の菩薩像(左)と羅漢像(右)

を従わせています。また、五重塔は75mもある京都の東寺(55m)を抜く高さとなっています。

 

大仏殿(鉄筋コンクリートの重層寄棟)

越前大仏(大仏坐像)

脇待仏の菩薩像(左)と羅漢像(右)

門前町から五重塔

五重塔、九龍殿、廻廊

この旅では訪問しませんでしたが、「勝山城」跡の北東には「福井県立恐竜博物館」があり、その界隈で恐竜の化石が大量に発掘されたところに博物館が建てられ、恐竜ファンや子供たちに人気あるスポットとなっています。

 

勝山橋の恐竜モニュメント

 

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