織田家の家臣であった者が大名となり、幕末まで続いたお家のお城紹介という切り口で、只今進行中ですが、本日からは、少し複雑な経緯の中で池田家が手にいれ拡大した「岡山城」(岡山県岡山市)についてお話をしていきます。

 

戦国時代、宇喜多直家がこの地の丘陵であった石山に城を築いたのが始まりで、その息子宇喜多秀家が岡山の丘陵地を取込んだ形で「岡山城」として拡張しました。秀家は豊臣家の五大老になりましたが、関ケ原の戦いで西軍で戦ったことで、改易その後は八丈島へ流されました。

 

宇喜田秀家時代の石垣(左-大形石材)と小早川秀秋時代の石垣(右側-丸い粗雑石材)

宇喜多時代の石垣(本丸中の段内に残る)

 

秀家在城時には、信長や秀吉の影響を受けた伏見・桃山風の天守閣を築き、その天守が戦前焼失迄残っていました。そして、現在の天守はその外観復元であります。

 

復元天守(北側が歪んだ多角形)

復元望楼型天守と塩蔵

 

宇喜多秀家の後に51万石で入城したのが、関ケ原の戦いで、最後に徳川家康の東軍に寝返った小早川秀秋です。しかしながら、21歳で亡くなり嗣子なくお家断絶となりました。

 

そして次に、池田輝政の次男忠継に与えられましたが、幼少であったので実質は兄の利隆が替わりに治めていました。しかし忠継は若くして死去したので、忠継の弟忠雄が入城しました。忠継と忠雄は徳川家康の孫だったことと、31万5千石で入城したのでその格式に見合ったお城にする幕命もあり、縄張りの拡張や門の付け替え、御殿やその他城郭建築物の新築が行われました。

 

月見櫓(三階、花畑御殿跡付近から見ると二階に見える、池田忠雄入城時に新築)

月見櫓下石垣(池田忠雄のとき1620年に築いた算木積み)

 

忠雄の死後、嫡子光仲(みつなか)は幼少で、岡山の重要な地を任せられないとのことで、「岡山藩と鳥取藩の領地交換」が、これまた幕命によって、鳥取城主だった池田光政が岡山城に入城してきました。因みに、光政の父親は利隆で、輝政の長男でした。その後、光政の系統が幕末まで統治することになります。

 

西の丸の池田光政の隠居所跡碑と西手櫓

 

ここで少し話が戻りますが、何故、池田家が織田家の家臣であったのかと言いますと、前述の池田輝政は、織田家の有力家臣であった池田恒興(つねおき)の子であり、恒興自身は信長の乳母の子としても織田家で重んじられていたからです。

 

そして、恒興は、本能寺の変後は豊臣秀吉に従い、数々の戦で功績をあげた武将でしたが、小牧・長久手の戦いで徳川方に包囲されて敗死しました。

 

江戸時代のほぼ初めから、備前の国を治めた池田家とその居城「岡山城」との関係は、だいぶ複雑ですが、前述の通りです。

 

では、明日から「岡山城」を順番に見ていくことにしましょう。

 

 

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