ライターの長谷川博一さんによる、ブルース・スプリングスティーン・コラムです。


最新作『WE SHALL OVER COME:THE SEEGER SESSIONS』を深く理解していただくために、ピート・シーガーとは何者か?を書いていただきました。大変興味深い内容です!




06/4/24ピート・シーガーその1.


ピート・シーガーの基礎知識その1~ ピート・シーガーの栄光  




ブルース・スプリングスティーンにとって初めての全編カバー集となる新アルバム『ウィ・シャル・オーバーカム:ザ・シーガー・セッションズ』を制作するにあたって、ブルース自身がライナーノーツの中でピート・シーガーについてこう記している。




“ロックンロール少年だったぼくは、ピートの音楽についても、彼が与えた影響の深さについても、あまり知らなかった。そこでレコード店に行き、一抱えのピート・シーガーのレコードを買ってきた。数日間続けて聞いた。何と豊かな歌の数々。それらの歌の豊かさと力が、ぼくが抱いていた「フォークミュージック」の概念を一変させた。ピートの音楽を聞いたことが、そしてピートのトリビュートアルバムのために、97年、最初のセッションをもったことが、初めは軽く考えていたのだが、ぼくを探求の旅に送り出した” 




アメリカ内外の数多くのフォークソングを採集し、保存し、歌いながら広めていったピート・シーガー。日本ではまず先に<花はどこへ行ったの><ウィ・シャル・オーバーカム><天使のハンマー>といったヒット曲の作者として知られているのだろうが、その業績は流行歌手としてではなく、むしろ音楽文化史の中で高く位置づけられるものだ。かつて『ダウンビート』誌はピート・シーガーのことを“アメリカの音叉”と名付けたことがある。元々は根無し草のアメリカ人にルーツを与え、アメリカ音楽史の頼るべき指針となり、その歴史を調律していったという意味で捉えていいのだろう。そんな彼の業績を、本稿第一回目では簡単に振り返ってみたい。




ピート・シーガーは1919年5月3日、ニューヨーク州パターソンで生まれた。父チャールスは音楽教師でピアニスト。生母コンスタンスもバイオリン奏者だった。幼少時は動物学者シートンの著作に親しみ、自然の中で多くの時間を費やすのが好きな野生児だった。絵が好きで、文章を書くのが好きで、バンジョーやウクレレを弾くのが好き。十代の頃に目指した職業の優先順位は、1に絵画、2にジャーナリズム、3にミュージシャンだったという。




1936年、ノース・カロライナで開かれた歌と踊りのフェスティバルに父親に連れられて行き、現地の民謡を聞いてショックを受ける。ピート・シーガーのトレードマークともなる5弦バンジョーの演奏も、ここで彼は初めて聞いた。39年、ハーバード大学を中退し(顔を合わすことはなかったようだが同窓生にはジョン・F・ケネディがいたらしい、そういう世代の人なのである)、翌年から音楽学者アラン・ロマクスの助手として国会図書館にて民謡の収集・整理の仕事を手伝うことになる。彼の紹介でこの頃、ピートはウディ・ガスリーやレッドベリーといった重要なフォークシンガーに出会う。そして2人がピートに音楽家としての基本を教えた。特にウディ・ガスリーとは民謡収集の仕事仲間となり、ウディが曲の解説を書き、譜面の読めるシーガーが採譜をするという作業を受け持っていた。




ピート・シーガーはソロ活動の他に、アメリカのフォーク史に名高い2つのグループをこれまでに結成している。一つは初期のメンバーにウディ・ガスリーも名を連ねたオールマナック・シンガーズであり、もう一つはウィーヴァーズ。1950年にデッカから発売されたウィーヴァーズのシングル曲<グッドナイト・アイリーン>は当時としては驚異的な200万枚の大ヒットとなった。この曲は尊敬するレッドベリーのカバーだった。ヒットの後、音楽出版社からは「プロテストソングばかりでなく、<グッドナイト・アイリーン>のような歌は他にないのか?」と催促を受けたりもしたようだ。半ばへそを曲げながら1959年に提供した<ターン・ターン・ターン>という曲が、6年後の1965年、ザ・バーズのNO.1ソングになったというユーモラスな逸話もある。




社会を変えていく活動への参加と歌をうたうという行為が、ピートの場合は別のものとはならない。いささか急進的な理想主義の持ち主ゆえ、何故か1950年代のアメリカでは共産主義者と揶揄され、いわゆる「赤狩り」の餌食となり、50年代に彼は音楽活動の縮小を余儀なくされてしまう。しかし50年代末からのキングストン・トリオらの活躍による「フォーク・リバイバル」の機運に乗ってピート・シーガーの再評価がなされる。56年発表のソロ・アルバム『アメリカ愛唱曲集』はチャートの1位を飾り、1959年から始まった「ニューポート・フォーク・フェスティバル」でも主要な出演者に数えられていく。63年には新旧ウィーヴァーズのメンバーが勢揃いしてのコンサートがカーネギーホールで盛大に開かれる。音楽的には後輩とも呼べるはずのボブ・ディランがプロ・デビューしたのもこの頃で、1年前の1962年。先頃公開された映画『ボブ・ディラン ノー・ディレクション・ホーム』にも紹介されていた、ディランのエレクトリックな演奏にシーガーが激怒したとされる(このエピソードの詳細は本稿2回目で述べる)「ニューポート・フォーク・フェス」は1965年。ディランとピートの年の差は22才。年度を追って見ていくと、その遙か前から活躍していたピート・シーガーは、いわばプリ・ディラン期のフォーク音楽の立て役者なのだと言える。




フォーク音楽とは何も自作の曲が中心ではない。時には名も知らぬ労働者の労働歌であり、家族の歌であり、男女のラブソングだった。ピート・シーガーの時代の歌を楽しむためにも、聞き手の自分は以下の2点を心の中に留めて置いた方がいいみたいだ。




一つは歌い手が取り上げる曲がオリジナルであるかどうかは、大した意味がないということ。それよりむしろ、楽曲は改題されたり新たな歌詞が加えられたりして長らく人の心に居続ける方が重要なのだ。地域が変われば語りも変わる。フォークソングは、ならばこその民衆の歌である。例えばピート・シーガーの代表曲とされる<ウィ・シャル・オーバーカム>は1947年にジルフィア・ホートンという人がノースカロライナ州のタバコ労働者が歌っている歌詞としてピートに教えたものだった。原曲は<アイル・オーバーカム>もしくは<アイル・ビー・オールライト>という古いゴスペル曲だった。ホートンはそれを<ウィ・ウィル・オーバーカム>と歌い替えていたが、ピートは更にそれを<ウィ・シャル・オーバーカム>に替えたらしい。“シャル”の方がもっと口を大きく開けて歌えるし、“ウィル”より歌いやすいという理由からだった。この歌はやがて1960年代のアメリカ公民権運動 ベトナム反戦運動のさなかで、参加者が盛大に歌うテーマ曲のようにもされていく。




親友のウディ・ガスリーが歌を作る時も、大抵は古いメロディに新しい歌詞をつけたものだったという。頭の中にはすでに無数の素晴らしいメロディが浮かび、ウディが考えているのはもっぱら新しい歌詞の方だった。ピートの指摘によると何でもレッドベリーの♪アイリーン、グッドナイト♪のメロディで、ウディ作の♪ロールオン、コロンビア、ロールオン♪が歌えてしまう。しかしそんなメロディの近似もシーガーが指摘するまでウディも気がつかなかったらしい。




複数回の来日経験があるピートは日本の民謡にも詳しい(奥様トシさんの父親は日本人でもある)。400年前に作られた<黒田節>が何故、今風に歌詞を替えて歌い継いでいかれないのかと疑問を呈する向きが著書『虹の民に送る歌』(社会思想社・刊)にあるが、このあたりもなるほどなあ、と思う。




原作を知っての改作と、知らぬふりのいわゆる盗作は違うのだろう。シーガーはある日、アフリカ民謡のSP盤の中に<ウィモウエ>という歌を見つけ、やがてそれはウィーヴァーズの代表曲となった。ズールー語で歌われる<ウィモウエ>は後に英詩が加えられ、ザ・トーケンズのヒット曲<ライオンは寝ている>に姿を変えていく。とはいえシーガーの場合は原曲<ウィモウエ>の作者を探り当て、原作者ソロモン・リンダの家族に相当の著作権収入が届くようにとの配慮もしている。本人のレコードの楽曲クレジットにも作詞&作曲がソロモン・リンダ、補作詞&曲にシーガーを含めた4名のアメリカ人を表記している。このあたりが彼の持ち前の公正さや律儀さを物語ってもいる。




もう一つ大切なのは、ピート・シーガーの時代の音楽は、演者と聞き手の区別がはっきりしていなかったということ。聞き手も一緒になって歌うことを好んだし、シンガーは印象的なフレーズを復唱させて、聞き手をハーモナイズさせる瞬間を持とうと務めた。いわば最大の歌い手は聴衆だった。フォークシンガーと聴衆が一体となって歌を楽しむ集いを当時、「フーテナニー」と呼んだが、彼のステージはまさしく「フーテナニー」形式のものだった。バンドと円座になって音を奏で、共にコーラスを歌い、聞き手にも歌を求めるようなブルース・スプリングスティーンの今回の演奏法も同様のものだと言っていいだろう。




ウディ・ガスリーの息子アーロ・ガスリーは父親の時代の音楽について、こんな風に述べている。

“親父の時代には歌は単なるエンターテインメント以上のもの、人生の一部だったんだよ。日常生活の中に音楽の果たす役割があったんだ。今じゃ音楽は誰か他人が演奏するのを聞きにいくもので、自分で歌うものじゃない。親父がそういう、人が演奏するのをただ聞きに行くような、機械的で盲目的なメンタリティは好きじゃなかった。親父も、ピート・シーガーも、音楽は自分で奏でるものだと思ってたんだよ”(『希望 行動する人々』、スタッズ・ターケル著、文春文庫・刊)




基本的には詠み人知らずであって構わないフォークソングは、多くの人達に歌われてこそ真価を発揮する。現在のようなポップソングとレコード産業が一対となったような音楽環境の中では、時には羨ましくさえ感じるような情熱的なコミュニケーションが存在していたのも事実だ。時には権力側が慌てて阻止しようとするほどの「歌」の力は、現在よりも確かに強かったのだろう。




1963年にレイチェル・カーソンの『沈黙の春』を読んだピート・シーガーは感銘を受け、自身も大きな転機を迎えた。社会の変革に捧げていたその情熱は、今度は環境運動にも注がれるようになる。昔ながらの帆船でハドソン河を航行すること、そしてハドソン河の水質改善を推進する「クリア・ウオーター・プロジェクト」を69年より開始し、その活動は現在に至っている(前述のアーロ・ガスリーも、このプロジェクトに参加している)。




そしてピート・シーガーは今も健在。5月には87才の春を迎える予定である。ニューヨーク州以北のビーコンという町に暮らし、自然に囲まれたオーガニックな暮らしを続けている。今でも薪割りは自分で行うらしい。彼が少年時代に流行っていた音楽は、何もフォークソングではなかった。当時はスィング・ジャズの黄金時代。ピート自身もジャズバンドに在籍して、ガーシュインの曲を演奏したりもしていた。けれども前述の17才の時、ノース・カロライナのフォーク・フェスティバルで目の当たりにしたフォークソングが、その後の人生を変えた。あの日の衝撃を、彼は以下のように語っている。




“私はラジオでは決して聞いたことのなかった、すばらしい音楽が、私達の国にあったのだということを発見した……私は、歌い手達のかん高い声の調子、元気いっぱいな踊りが好きだった。フォークソングの言葉には、その中に生活のあらゆる中身があった。ユーモアは辛らつで、ただものではなかった。悲しい物語はリアルで、センチメンタルではなかった。これに比べれば、30年代のポップミュージックの殆どが、私には弱々しく、なよなよとしたものに思われた”(『歌わずにはいられない』D・K・ダナウェイ著、社会思想社・刊)

ピート・シーガーの、そしてアーロ・ガスリーの新たな解説を受けながら、改めて当時の演奏に耳を澄ますと、シンプルで憶えやすい数々のレパートリーが一層意味深いものに感じられてくる。

 (長谷川博一)