HEATWAVEが繋ぐサークル・仙台編 | 髭モダン Talkin'

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仙台在住のMOD音楽職人が綴る気ままなブログ

先日11.17、仙台で行われたHEATWAVEのライヴの際に、とある冊子が来場者に無料配布された。

仙台の熱きHWファン能勢直子さんが作ってくれたものである。

その内容がとても素晴らしく、もっと多くの皆さんに読んでほしいなぁと思い、本人の了承をもらいここに掲載させていただくことにした。

なお今回WEB投稿するにあたり、段組みなど若干の修正部分があることをご了承ください。

 

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HEATWAVE

40th Anniversary

仙台 SPECIAL !

 

ヒートウェイヴにはかつて「東京地獄商事」というファンクラブがあった。

その会報紙である「東京地獄新聞」が90年代のいっとき、ここ仙台の地で編集されていたことをご存知だろうか。

 

それは今から四半世紀前の、わたし(※1)の話。

わたしは東京地獄商事、会員番号ならぬ社員番号222番だった。「あんたに地獄から手紙が来ているよ」と、会報誌が届くたびに母親に言われることがちょっと恥ずかしくはあったが、今のようにSNSはおろかインターネットでさえ一般に普及していなかった1990年代の前半、仙台の片隅に暮らすわたしにとって大切な情報源の一つはファンクラブ会報誌だった。各地でのライブの様子、メンバーの近況、おすすめのCD etc... たとえそれが地獄からの手紙でも(笑)とてもとても楽しみにしていたものだった。

 

そしてその会報誌が、仙台の鈴木(たまのう)さんや佐藤まきさんたちの手によって作られていたことを知ることとなる。

なぜ福岡出身のバンドで、東京に事務所のあるバンドの会報が仙台で?どんな経緯があるのだろう?

 

1992年にここ仙台で、山口洋の「歌の宅配便」というソロライブが行われたらしいということを知ったのは、わたしがヒートウェイヴを好きになって数年過ぎた頃。そのライブを企画したのが前述の鈴木玉能さんや佐藤まきさんたちの「フォーラムCATS」という団体。そして「歌の宅配便」開催時のスタッフの一人だったのが、今回のライブのsupported byに名を連ねているsmokeの石田あきこさん。

そんなあきこさんとは10代のころからのバンド仲間だったという、我らがGROOVE COUNCILの佐藤ヒロユキさん!なんておもしろい繋がりなんだろう!

 

そば食堂やぶ信の菊地さんやまりさん、VORZ BARの道地さん・松田さんも含め、たくさんの繋がりがあって今回14年振りのヒートウェイヴ仙台ワンマンライブが本日開催される。

当時があるから今夜がある。誰かがヒートウェイヴを好きでい続けたから、違う誰かへとその思いが繋がっていく。

 

ヒートウェイヴが真ん中にある、人と人とのつながりの物語・仙台篇。

脈々と続くヒートウェイヴへの愛と敬愛の物語。

 

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今回、お話を聞かせてくださったのは「フォーラムCATS」のメンバーだったまきさんと、宅配便のスタッフでもあったsmokeのあきこさん。そもそも二人は中学生の頃からの音楽仲間で、一緒にバンド(※2)を組んでいたほどの仲。オープン前のお店をお借りし、ヒートウェイヴが流れる店内で、お話をうかがった。

 

【HEATWAVEとの出会い】

(M:まきさん、A:あきこさん、聞き手:わたし、10月26日 smokeにて)

 

M:最初はあきちゃんがヒートウェイヴ(以下HW)を聴いてたんだもんね。
A:そうです

M:わたしはあきちゃんと同じバンドをやっていて。

 

ー バンドの出会いっていつだったんですか? 

M:15才?

 

ー 高校生?同じ高校だったんですか?

M:全然違うんだけどね。あきちゃんがすごいいっぱい音楽を聴いていて、その中にHWがあったんだよね。 

 

― あきこさんとHWとの出会いっていうのは?

A:わたしは当時付き合っていた彼氏がいて、笑(その人からHWの存在を)めんたいロックのすごいバンド、ルースターズと同じ福岡出身って教えてもらっていたけど、そのときはまだ聴いてないのよ。その後、自主制作の「歳月の記録」(※3)が発売になるよ、というのを知って。最初はディスクノートでしか売ってなかったんだよね。それでディスクノートに電話してゲットして(CDを聴いて)「これはすごい!」って。そしてまきちゃんに聴かせたのが最初だったんだけど。

 

― これはすごい!と思った「すごさ」とはどんなところだったのですか?

A:最初はめんたいロックだという刷り込みがあるから、なんとなくサンハウスみたいなバンドとかさ、ルースターズみたいなバンドだと思って聴くじゃん。でも、なんか熱いんだよね。

で、一番最初にまきちゃんに聴かせたんだけど、最初まきちゃん反応鈍かったの。「こわい歌詞」って(笑)

M:そんなこといったかなぁ〜
A:「怖くない?君の心臓にキスがしたいだよ〜っ」って。(※4)

(一同 笑)

 

M:いった覚えあるかもね。言ったかも。

A:わたしはね、すごいかっこいいかっこいいって、いっぱい聴かせたんだよ。で、そこからわたしはCD屋さん(※5)で働くことになって、(HWが) 「柱」(※6)でメジャーデビューするんだよっていうので、またバンドのみんなに「柱」を聴かせて...。

ライブを一回観に行ったよね?わたしその時、ドラムの藤原さんのファンだったの。


― それって、ええと、CAD(キャド)ホールですか?(※7)

A:たぶんCADだと思う。まきちゃんはそのライブがきっかけで「HWいいんじゃない!」ってなったんだと思う。わたしが一生懸命CDを聴かせていた頃じゃなくて(笑)。

 

【1992年、歌の宅配便を開催】

――― その後お二人のバンド「ルシア」は、約6年の活動期間を経て惜しまれつつ解散。あきこさんはCD屋さんで、まきさんはピアノの先生として道を歩んでいく ―――

 

A:で、そこから、まきちゃんがHWを好きになるところから(歌の宅配便は) 始まるんだよね。

M:ライブを観ると、山ちゃんがやっぱりかっこいいんだよね。
A:で、まきちゃんが今度はわたしみたいに、一生懸命、(鈴木)玉能先生を洗脳しはじめるんだよね。「いいバンドがいるんですよ」と。 

 

― そもそも玉能さんは、まきさんとの知り合いだった?

M:わたしのピアノの先生。小学校から習ってたから。


― すごいですね!ピアノの先生に「このバンドいいんです!」って言う(笑)。

M:もうその頃は(玉能さんは)有限会社フォーラムCATSを立ち上げていて。 わたしや玉能さんとか五人で出資して有限会社を作って、そこでクラシックの人たちのライブのプロデュースをしていて。公開レッスンみたいなこともしていたかな。

 

― 会社を立ち上げたのは何年だったのですか?

A:1989年とか90年とかだよね。
M:玉能さんが自分でコンサートの企画をやりたい人だったから。パンフとかチラシとかも自分でデザインして作っちゃう。

曲の紹介とかも、みんなに面白くクラシックが伝わるようにデザインするの。紙物が好きだったんだよね。 それが「地獄新聞」を作るきっかけにもなってるんだけど。

クラシック(の企画)ばっかりやってたけど、「ロックは呼べませんか?ロックライブはできませんかね?」って聴いてもらったのが「歳月の記録」。「歳月の記録」とか 「柱」とか玉能さんに聴いてもらったら、「何コレいいじゃないの!」ってことになったんだよね。「凡骨の歌」とかもね(※8)。

 

― クラシック畑の方が山口さんの音楽に、今で言う所のささったのは、どんなところだったんでしょうね。

M:詞かな〜。自分でも文章を書くのが大好きな人だったから。

 

― そうですね、(玉能さんの文を)読むと、独特の文体がある感じがしました。

M:そんな感じで(玉能さんが)「いいんじゃない、やってみましょう!」っていうんで、ブレスト音楽出版に「仙台でライブできないでしょうか」と連絡をして。一年くらいたって、もう呼ぶの難しいのかなと思っていたころに連絡がきて。

「歌の宅配便」という形で、山口一人だったら経費的に実現できるのではと。そのころ「歌の宅配便」が始まったころなんだよね。そこからバタバタと準備が進んで。

 

― そこにあきこさんはどのよう関わったのですか。

A:わたしはフォーラムCATSのスタッフではないんだけど、山ちゃんのライブだけは、混ぜてもらったって感じかな。スタッフみたいな感じで。

M:本当に手作り感のあるライブでね。ギター1本で、アンプ使ったけど。弾き語りだから、お客さんも座り席でね。

 

― そのとき、どんな歌を歌ったか、覚えていますか?

M:「何よりも僕らしく、何よりも君らしく」とかかな?

 

― ライブを開催した感想や、その手応えはどうでしたか?

M:一人で歌っても、山ちゃんは山ちゃんっていうか。一人で歌っても成立しちゃう、ちゃんとその世界が作れる。

 

― その頃の山口さんの印象はいかがでしたか?

M:歌のまんまじゃないか。
A:うんうん。今みたいにおしゃべりしないし(笑)。たぶんでも福岡の人だから、(観客の反応が)物足りなかったんじゃないかな、ほら東北人シャイだから。 わたしたちはすんごく好きだったんだけど。

1992年7月31日 うたの宅配便 山口ビルB1にて

 

 

【そしてファンクラブ会報誌の編集へ】

M:「歌の宅配便」の打ち上げの場所で、玉能さんが事務所の方から「ちょうどファンクラブの会報を作る人がいなくなって大変だ」という話を聞いて。玉能さんが「じゃあうちで作るよ、仙台から発送してもいいわけでしょ?仙台で作っても全然構わないよね?」ってことで、その場で決まるわけ。

 

― 歌の宅配便がきっかけだったんですね。

M:じゃあその会報誌、2ヶ月にいっぺんだったかな?作りましょうということになって。わたしは文が書けないから取材で東京にライブに行ったり、レイアウトをしたり。「何文字でこういうのを書いてください」と、文章を書くのが好きだった玉能さんに言って、みっちゃん(※9)に4コマ漫画を描いてもらって。

みんな仕事をしてるから、玉能さんの仕事部屋にいって、そこでみんなで徹夜でばーっと作るみたいな。(その後HWの事務所が)移って、そこには会報が作れる人材がいたから、うちらに外注しなくても大丈夫ってことになったのかな。

 

― フォーラムCATSの方々がファンクラブの会報誌を編集してること、あきこさんにはどう映っていましたか?

A:わたしは、わたしがいいと思ったものが伝わったなって思ったので、なんか満足って感じ。

1994年 NO FEARのツアーのことが。

 

1995年 みっちゃんのマンガもありました。

今月の1枚。これを読み、音楽がもっと好きになりました。

 

【愛される人・山口洋】

M:純粋にファンだったころは、とりあえず永福町(※10)に行ってみようって行ったこともあったなぁ。ほらラジオもね、岩手との県境まで行くと聴けるのよ。夜中ね。(※11)

あきちゃんとも行ったし,みっちゃんとも行ったし。聴きたくて聴きたくて聴きたくて聴きたくて行ってたんだよね。録音してたりもしたんじゃないかな。

 

― 不滅の地獄アワーですよね。私も聴いていました!わたしはちょうどその頃、身内が若柳(現宮城県栗原市)にいて,若柳はギリギリFM岩手の電波が入るから、(電波が弱くて)ガッサガサな音の番組を120分テープに録音してもらい、そのテープを仙台に郵送してもらって聞くということをしていました。そのテープ、今はCDにしてもらって。全然音は良くないんですけど、当時の雰囲気がなんとなくわかります。

わたしとしては、そうやって県北までいっていたというのがすごい。

M:まあねぇ。知り合いもいなかったからねー。

 

― でもそこまで聴きたいっていうのがすごい(注:仙台から岩手県境までは車で2~3時間かかります)。

M:そうだねぇ。惚れてからね、その時はね(笑)

A:まきちゃんはすごかった!わたしはプロのミュージシャンとして見てましたよ。 (一同爆笑)

 

― ラジオを聞きにいく情熱がすごいです。
M:情熱しかないから。

 

― そうやって(山口さんは)みんなに愛されて...。

M:でもそれだけのものをもっていたってことだよね、山ちゃんは。

 

― ほんとにわたしも大好きで。初めてライブを見るときは、もうドキドキとわくわくで。ビーブベースメントシアター(※12)で1994年に初めて観たんですけど、すっごいうれしくて観に行ったのに、ものすごく威圧的なライブで(笑)、あれ?みたいな。

なんか、怖いって思ったんですよね(笑)。椅子が置いてあって、立っていいのか座っていいのか、お客さんもどうしたらいいかわかんないみたいな感じで、山口さん、その態度に業を煮やしたのか、みんな自由になっていいんだ!!!と。どうしよう、自由ってどうするんだろうって(笑)、初めてのライブは戸惑ったという記憶があります。

A:エレカシもそうだったけど、当時のバンドって(多くが)すごいつっぱってたから、おっかないんだよね。

 

― わたしが今まで見てきたバンド、こういうんじゃないって(笑)。民生〜とかMIYA〜ってやってたのに(笑)。自由に!!!って言われて、あれはびっくりしたけど、でもやっぱり歌がすごく良くて。

M:命かけてやるみたいな雰囲気があったよなぁと思う。山ちゃんが納得いかないわけ、スネアの音に。後ろ振り向いて、こう叩けってジェスチャーをするわけ。なんかそれじゃない、みたいな感じでやるわけよ。それだけ自分は思いはあったわけだよね、きっとね。それがさ「自由に!!!」に繋がっていくのかな?

 

― 今は池畑さんという不動のドラマーがいますから!

 

 

【ヒートウェイヴ わたしのこの一曲】

― まきさんにとってのHWこの1曲、大好きな一曲ってありますか?

M:玉能さんは「ゆきてかえらず」がすごく好きで、自分が死んだら流してほしいって言ってたんだけど、わたしが印象に残ってるのは「怒りの門」(※13)なんだよね。

わたし、自分がやりたいことはいろいろあったんだけど、結婚して子育てや介護で出来なくて。でもいつの日か、また山ちゃんと巡り会いたいなって気持ちはあったかな。

子どもが小さくて何も出来ていなかった時期に山ちゃんに久しぶりにあった時、自分はやりたいことがあるっていう思いを(山口さんに)話したら「やりなよ」と言われて。そうなんだよねって。

そのやりたいことっていうのは「映画を作ること」だったんだけど。子どもを幼稚園に送ったあと、喫茶店に入っていろいろと思っていることを書き留めて、脚本とまではいかないけれど、そういうものをずっと書いていて。どこにも出かけられない、自分の時間が一切ないときに、そういうものを書いていた時期があって。 

だから、わたしが何か作れるようなったときにね、山ちゃんといつかまた巡り会いたいって。目標ではないんだけど、ぼやっとした未来みたいなものが、この曲にはすごくあったかな。このアルバムの頃の曲は思い入れがあるから、聴いていたころの自分とリンクするし、いろんな思いが増幅するんだよね。
A:若い頃に聴いてたものって,グッとくるよね。

 

― あきこさんにとってのHWこの1曲というのはありますか?

A:やっぱりわたしは(アルバムで言うと)「歳月の記録」だね。「僕のほころびの場所から」と「らんらんらん」だな。メジャーデビュー前で、たぶん仙台でだれも知っている人がいない状態で聴いて、「あ、これ、わたしのバンドだ!」って感じた思い出の曲だね。

 

― 「らん・らん・らん」は心臓にキスがしたい問題ですね(笑)

A:やっぱり「歳月の記録」は、わたしの中のヒートウェイヴの始まりだからね。

わたし最近のアルバムだったらこれが好きだよ。(といって「CARPE DIEM」カルペディエムを出す)Hotel Existense(※14)が好き。

 


【つながる縁は2019年へと】

A:(山ちゃんとは)不思議な縁は感じるよね。離れちゃったなぁと思っていたら、なぜかヒロユキが関わるとか。あの頃全然関係のなかったヒロユキが。

 

― お二人とヒロさん(佐藤ヒロユキさん)とは、どのように知り合ったのですか。
A:昔からのバンド仲間。ヒロユキのバンドはピースメーカーズ peacemakers (※15)。
わたしたちはその前のニュームーンから知ってるけどね。

M:佐藤さんが山ちゃんとそんなに仲良かったことも全然知らなかったのよ。

― きっともともと知っている存在ではあったのでしょうけれどね。カフェミ ルトン(※16)でライブをやったあたりからでしょうか。(この辺の話は、今度ヒロさんに聞きたいと思います。とは言え、近年のHWとヒロさんの結びつきは、ここで綴る必要がないくらいですね)

 

― HWは今年結成40周年ですが,smokeは来年20周年ですね。 

A:わたし周年とかあんまり関係ないタイプだから(笑)。

 

― また4人で音を鳴らしたいですか?
A:まきちゃん絶対イヤだって言うの。
M:もう(ドラム)叩けなーい。

ー 観たことないので、ぜひ再結成して聴かせてください!

 

* * * * *

 

――― と、楽しい話はとめどなく続きました。今回はヒートウェイヴとの出会い話を聞くためにお二人に時間を作っていただいたのですが、ここでは割愛してしまったお二人のバンド活動の物語、友情物語、そして今に続く生き方のお話に、とても感銘を受けました。大切な思い出を教えていただき、本当にありがとうございました。

 

あきこさんの smoke は、来年 20 周年迎えます。わたしも時々飲みに行くのですが、おいしいお酒にいい音楽、ゆかいな人との出会い、そして店主であるあきこさんとの会話の時間は、わたしの生活にとって欠かせない、リフレッシュできる楽しい時間となっています(ここで飲むお酒、なんで美味しいんだろう?)。 

わたしの音楽活動もいつも応援してくれています。プロデビューも近かったというその歌声を、これからも聴かせてください。

まきさんは今、子育てや農業サポーターをしつつ、ショートムービーを撮影したり、映画音楽を作成したりしているそうです。「怒りの門」で思い描いた未来を実現する行動力、とても刺激を受けました。

1992年のあきこさん、ヒロシさん、まきさん

 

わたしのふるさと仙台で、ヒートウェイヴがもたらしてくれた音楽の火(灯)を絶やすことなく燃やし続けることができるのは、こんなに魅力的な人たちがいて、誰かへと繋ぎ続けてくれていたからです。

 

今回はお二人にしかじっくりとお話を聞くことができなかったのですが、「そば食堂やぶ信」の親方である菊地さんと女将のまりさん、「VORZ BAR」の道地さん・松田さん,そしてGROOVE COUNCILの佐藤ヒロユキさんもそれぞれに魅力と音楽愛(とネコ愛)にあふれた方々であることは、地元のみなさんなら十分ご存知のことでしょう。そしてそれぞれがそれぞれの場所で、HWのみならず、よいと思う音楽を発信し続けてくれています。

 

ヒートウェイヴと仙台とが出会った頃のお話、いかがだったでしょうか。

本日11月17日、この物語に新たな1ページが加わること、自分がそこにみんなといられること、本当にうれしく思います。

まだまだ記録しておきたいことはたくさんありますし、登場してもらいたい方もたくさんいます(紹介しきれず、ごめんなさい)。何よりも、観客のみなさんそれぞれに、HWと自分との物語があるのだと思います。

仙台で、宮城で、東北で、みなさんが暮らすそれぞれの街で、ヒートウェイヴと共に続きの物語をこれからも紡いでいきましょう。

 

20年以上も前のことを記憶で振り返ることが多く、場所だったり、年月日だったり、間違えていることがきっとあると思います。お気付きのことや「こんなこともあったよ」などありましたら、教えていただけるとうれしいです。

 

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(脚注は筆者による資料と証言と記憶と私事で綴っているので、間違いがあったらごめんなさい)

※1 「わたし」筆者。仙台在住のヒートウェイヴ・ファン。

 

※2 「ルシア」90年代の仙台でその名を轟かせていた女性4人組バンド。The WhoやThe Jam、プリテンダーズやパティスミスをカヴァーしオリジナル曲も演奏した。二十歳前後でこのチョイス、イカす!当時の写真はぜひsmokeで見せてもらってください。かっこいいし、かわいい!

 

※3 「歳月の記録」1989年リリースのアルバム。メジャーデビュー直前の作品。2004年、細海魚さんリマスタリングにより再発している。

 

※4 「らん・らん・らん」(「歳月の記録」に収録)の歌詞の一節。確かに衝撃的なフレーズ!

 

※5 「YAMAHAジョイナス」仙台駅前にあったCD屋さん。そば食堂やぶ信の女将も親方も働いていたのだそう!やぶ信の親方は「自分はバイトだった」と教えてくれた。

 

※6 「柱」1990年リリースのアルバム。ヒートウェイヴのメジャーデビューアルバム。福岡録音。

 

※7 「CADホール」仙台駅前、惜しくも閉店した百貨店「さくら野」が「ダックシティ丸光」「VIVRE」と名のっていたころ、そのビルの中にあったライブホール。わたしが訪れることができたのはたった1回。中学生のころに「たま」を観に行った。

 

※8 「凡骨の歌」1991年リリースのアルバム。

 

※9 「みっちゃん」あきこさん,まきさんのバンドメンバーでもあり、ファンクラブ会報誌の編集作業もされていた方。smoke 立ち上げ時のお一人でもあるそうだ。

 

※10 「永福町」東京都杉並区にある町。山口さんがかつて住んでいた場所であると、ライブのMCでもしばしば話題になる。1992年の会報誌には、山口さん自ら永福町で一緒に野球をやろうと呼び掛けているページがあった。なんて大らかな時代なのでしょう!

 

※11 「不滅の地獄アワー」(1992年4月~94年3月オンエア)の深夜26時から28時までのラジオ番組。「FMナイトストリート」という番組の月曜日が、山口洋担当の「不滅の地獄アワー」だった(ちなみに火曜日担当はフィッシュマンズの佐藤くん、木曜日担当はコレクターズの加藤さんだったようだ)。

宮城県では視聴できなかった。宮城県の北の方では、番組を放送していたFM岩手の電波がかろうじて受信できた。ラジコのない時代の話である。

数年前、山口さんのブログ「ロックンロールダイアリー」で「blog上地獄アワー」が綴られ、たくさんの素晴らしい音楽が紹介されていたことは記憶に新しい。オンエア当時も、洋楽を中心に名曲の数々がたくさん流され、わたしはそれで音楽を学んだ。ぜひ復活してほしい番組である。

 

※12 「ビーブベースメントシアター」現・市民活動サポートセンター。ヒートウェイヴはかつてここで3度ライブを行っている(1991年・1994年・1995年)。昨年と今年、VORZ BARとGROOVE COUNCILが主催し、山口洋も出演した「MIX UP & BLEND」のイベント会場でもある。

 

※13 「怒りの門」(アルバム「陽はまた昇る」1992年リリースに収録)。 いま聴いても全く色あせることのない、胸をうつ名曲の数々が収録。

 

※14 「Hotel Existense」(アルバム「CARPE DIEM」2017年リリース収録曲)。Hotel Existense、小説家ポール・オースターの作品「ブルックリン・フォリーズ」にそれは出てくる。ポール・オースターと言えば映画「スモー ク」の原作と脚本を担当。Smoke の店名は映画「スモーク」に由来している。

 

※15 「peacemakers」佐藤ヒロユキさんが20代のころ結成していた仙台唯一のパブロックバンド。CADホールでワンマンライブを開けるほどの人気と実力を兼ね備えていたそうだ。

LIVE FOR TODAY!

 

※16 「カフェミルトン」宮城県白石市にあるカフェ。数多くのミュージシャンに愛され、ライブも度々行われている。2007年から2009年ごろ、山口洋ソロライブが開催される。2009年4月にはカフェミルトンでのライヴレコーディングが「Live at Café Milton」として発売になる。録音を担当したのは佐藤ヒロユキ氏。

 

鈴木玉能さんに捧げます。大切な繋がりを、ありがとうございました。

 

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まだまだあります,宮城とのつながり ~メイドイン宮城の名盤の数々~

(上)サウンドトラック機巧奇傳ヒヲウ戦記(2000.12.6)

(下)機巧奇傳ヒヲウ戦記2(2001.3.7)

宮城県蔵王町にある廃校になった小学校にて録音。ピンク色に塗られたその建物は「ビックピンク」と呼ばれていた。昨年、惜しまれつつ閉店した「JAZZ ME BLUES noLa」の店主・佐々木さんらが当時は管理・運営していた。現在でもふとした瞬間にテレビから流れてくることが多い。テレビ番組のBGMに使われているようだ。これ、ほんと名作。

 

Live at Café Milton (2009.4)

宮城県白石市にあるカフェミルトンでライヴレコーディングされた、ぬくもりを感じる1枚。※16参照

 

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【ヒートウェイヴ わたしの この一曲】 PART Ⅱ

〈佐藤ヒロユキさん・GROOVE COUNCIL代表〉

「Starlight」

キャリアも長いし名曲が多いので1曲となるとビートルズやストーンズ並みに難しいけれど、 今あえて選ぶならこの曲かなぁ。情景が目の前に浮かび胸が苦しくなるほどの切ない歌詞と、途方もなくロマンチックで繊細なメロディー&アレンジ。 とにかくその音楽としての突出した美しさたるや、 僕にとっては涙なしでは聴けない世紀の名曲。

HEATWAVE の魅力は?

楽曲の良さは言うに及ばず、万華鏡のようなアンサンブルから生み出されるあのエレガントなグルーヴはたまらない。つまりはとてもバンドっぽいってことなんだけど、歌詞を除けばまるで洋楽のようなしなやかさがあって。余韻というか音の隙間というか、あの引き算は考えてもそうそう出来るもんじゃない。音楽の真髄を知り尽くしているからこそだよね。計算はしてるんだろうけど、それは頭脳ではなくすべてパッションに委ねられているような気がして、その絶妙な具合が聴いててつい熱くなってしまう(笑)

 

〈菊地真理さん・そば食堂やぶ信女将〉
「ゆきてかえらず」
いちばん、たくさん、聴いてるアルバムの中の、
いちばん、ぐぐぐっとくる曲です。
亡き愛猫たちとも、なんども、なんども、
いっしょに聴いたなあ◎
ヒートウェイヴの魅力。
私にとって、それは、言霊、です。ふふふ◎

 

〈菊地義信さん・そば食堂やぶ信親方〉
「銀の花」
19か20歳の頃、年上の女性のお家で初めて聞かせてもらいました。いや、女将だけど。。
それ以来大好きな曲です。
(裏では、パンダマンも好き)
HEATWAVEの魅力は? 衝動的で癇癪を起こしたような情熱や怒りと、恒久的な優しさと愛情、 二つながら奇跡的に混在しているところ。

 

〈松田さん・VORZ BAR〉
「満月の夕」
洋さんと会う前、店のライブでユウヤとクマちゃんが歌っていた満月の夕。小学生の頃から洋楽ばかり聴いていて、邦楽のバンドにはハマったことがなかったけれど、初めて聴くその曲は、いい曲だなと感じた。その後ヒロさんからの紹介で知った洋さん。 「一音聴いたらやられるよ!」と言われていたが、本当にその通りで面食らった。そしてそれが満月の夕を作った人だと知った。震災の時アメリカにいたので、 震災の時に作った歌だと言うことも後から知った。出会いの一曲だ。

 

〈道地さん・VORZ BAR〉

「 トーキョーシティーヒエラルキー」
店のイベント FamousTunes(注:VORZ店主のお二人とヒロさんとの3人で FamousなTunesを紹介してくれ るナイスな音楽講座)に洋さんがゲストで来てくれた時、歌ってくれた曲。NYの景色が思い浮かぶ様だった。 HEATWAVEの魅力は、やっぱり歌詞、言葉の力かな。

 

 

この冊子を作るにあたりご協力いただいた全ての方に感謝いたします。

発行日:2019年11月17日

発行者:能勢直子