嫉妬と友情

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「男女の間で友情は成り立つか」というのは、
古今東西、茶飲み話から哲学の場まで、激論の交わされてきた問題であろう。

まして今はLGBTの権利を考える時代でもある。
個人的な感情や、伝統的な価値観で、簡単に結論を出すのはいかにもマズイ。

 

自分自身は、
この設問は、「友情」をどう定義するかによるんだろうと思っている。

よって、一般的な結論は表明しない。

 

そんで、

なんでこんなことを書くのかというと、今週立て続けに「嫉妬」のあらわれるドラマに触れたからで、

 

1.7月に、源氏物語「葵巻」を朗読する会があり、その練習会があった。

 ご存じのようにこの巻では、愛人である六条御息所が、源氏の正妻葵を「呪い殺す」と読み解かれてきた。

2.となみ演劇鑑賞会の例会で「大正の肖像画」という劇団民藝の公演を観た。
 主人公は中村彝(つね)という実在の画家で、木村屋の主人夫妻長女らと、そして大杉栄はその恋人との、濃い人間関係が描かれていた。

3.今朝までの朝の連続テレビ小説「半分青い」が、朝ドラらしからぬ「ドロドロ」であること。
 主人公鈴愛(すずめ)が、幼なじみ律(りつ)に恋人ができて、平気なつもりでいたのにひどく取り乱す。

 

という感じである。

 

(写真は今朝の朝ドラの画面撮影)

 

いずれも主人公は芸術の方面に生きる人たちで、
(平安中期の貴族は、「みやび」に生きることが政治的義務だった)

恋人たちは、生活を支える現実的なパトロンとなったり、時には芸術のモチーフや動機になったりする。

普通に生活を共にする「結婚」という枠に、その関係をとらわれたくないといいながら、

身体のつながりを無視できず、また、その人の心を独占しようとする。

 

身体のつながりだけが恋愛ではないが、やはりそれは無視できない。

自分の生命の維持と、子孫・遺伝子を残すこととは、命あるものの根源的欲求だ。

 

食べていくだけが生活ではないが、存在感のある表現者であろうとすることは、周囲を傷つける。

ひとは孤高や極端を目指す人に対して、
ついつい普通で穏便な選択を勧めたくなるものだ。

 

人を思うことは尊いことではあるが、芸術における「同志」は、生活においても「同士」になりやすく、

そういう関係の「独占」や「安定」は、むしろ芸術を深める妨げになる。
 

個人的には、「嫉妬」をあまり感じない方だと思うが、

やはり家族がセクハラまがいのことをされれば、怒るだろう。

そもそも恋愛感情というのは、自分自身でコントロールできるものではない。

たぶん、一般的な「正解」などというものは、ないのだろう。

 

ただ、自分に引き当てて、

教訓としたり、後悔にとらわれたり、

あるいはこうやってネタに振ってみる(^^;;
永遠に、そのくらいのことなのかもしれない。