責任を取らない日本人

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日馬富士の暴力問題、
大相撲は「スポーツ」ではなく「興行」だというのが私の持論なので、
全国ニュースのトップになるほどの大きな問題だとは思わないが、
千秋楽、白鵬も理事長も謝ったという「謝罪」について

かねてから思っていることを書きたい。

今日も東レの子会社の不正がニュースになっていた。(下の写真)


東芝を追い込むきっかけとなった不正会計、
日産などの自動車メーカーで問題となった、資格のない検査員、

いずれも一流企業による、違法行為、つまり
立派な会社が、「犯罪」をおかしていた、という話である。

 

 

 

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基本的に、刑事事件で法的な「罪」を償うのは、
金銭的な「罰金」か、身体的な「懲役」(あるいは「死刑」)かである。
 

また、違法な(この場合の法は、法律だけではなく、慣例や一般常識も含む)行為により受けた被害については、民事として「賠償」の責任が生じる。

タカタの不良エアバッグでは、こちらの責任が、会社を潰す事態となった。


企業は主に「金儲け」を目的とする組織であり、
その違法行為が、罰金や賠償金で償われることには、懲罰的にも、抑止効果的にも、
一定の合理性があるだろう。

しかし、個人が社会に迷惑をかけた、というような場合、
その「責任を取る」ということは、
あるのだろうか?できるのだろうか?


懲役を受けようと死刑になろうと、
社会的には懲罰となり、抑止効果があるとしても、

けして、被害者にとっての「償い」ではない。

 

たとえば国会議員が、スキャンダルで「政治的な責任を取る」

というのは、政党や役職、国会議員を辞める形で行われ、
その後の選挙で当選すれば「禊は済んだ」とみなされる。
(スキャンダルの多くは、家族や秘書の行動に対する監督責任が問題とされるので、本人が違法行為をしていた場合は別である)

日本語で、謝罪の表現というと

「お詫び申し上げます」と言って頭を下げ、

「申し訳ありません(=弁解の余地がない)」

「ごめんなさい(=お許しください)」
と言うばかりで、

「罪を償う」という表現が見当たらないことに気付く。

してはいけないことをしてしまった場合、

確かにその多くは、「なかったこと」にはできず、
謝ったからといって、償いにはならない。

逆にいえば、
償えないような事態をひき起こしてしまったという認識が、「謝罪」という行動になる。

事態は公にされただけで、「解決」の見通しなどないのだ。
社会的な「罰」を受けることはあっても、
それでは責任のとり方としては不十分だろう。
 

「償い」ができません、という表明で、謝ったことにして、
結局、罪を水に流してしまうのが日本人なのではないか。
 

それに対して、
子々孫々にまで恨みを伝えていくのが世界の大勢なのではないか、
その感性が日本人を「特殊な民族」にしているのではないか、と思うのである。

 ◇ ◇ ◇

先だって読んだのが「日本人の〈原罪〉」という本である。

人は、祖先から「物語」を引き継いで生きているものだ、という話から始まり、
日本の最古の物語「古事記」(イザナギ)や「夕鶴」など、
見てはいけないものを見た男が、
その罪を償うことなく、女性の情念を「祓(はら)い浄(きよ)め」てしまう、

それが日本人の「罪」の処理方法なのではないか、という。
「祓い浄め」は、「払い清め」であり、つまりは水に流すのだ。

罪は償われず、反省はなく、責任はうやむや、
後は、流されてしまった情念の「祟り」を怖れるばかり。

自分だけは、そんなふうではなく、と思う一方で、
無責任な行為と謝罪の繰り返しが、

日本という国の当たり前だとすれば、


自分の方が非常識なのではないかと、暗い気持ちになるのである。