毎日聴いている。

iPodやスマホは便利だ。




J-POP、ロック、ヘビメタ……こうした音楽は、流れてくる音そのままが体に入ってくる。

だから、それだけで良い。



シャンソン。

これは面白いことに、流したまま聴いていない私がいる。


戸川昌子さんのCDや映像で、聴こえてくるのは生前の、目の前で直接聴いていた戸川さんの歌。

NERO、劉玉瑛、江川真理子さん……皆、音源ではなく私の中にある宝箱が開く。




このジャンルは、決定的な違いがあるのだろう。

デジタル化できぬ、生き様のパワー。



メジャーなミュージシャンたち。

チューリップのヴォーカルであった高橋ひろのライブは、手がとどくような距離で聴いた。聴きに行った。

シャズナがテレビにガンガン出ていた頃、ホールコンサートに足を運んだこともある。


その歌そのものが好きだったからCDを集めたけど、ライブをリピートしたいか……となると、CDで十分だと感じた。

あの頃は、CDや映像がそのまま世界を再現していると感じていたから。



ところが、デジタル再現は所詮人工物であると、天然モノには遥かに及ばないと、フラメンコと出会って思い知ることになる。

シャンソンも然り。


魂や生き様といった、苦しみの悲しみの、喜びの輝きは、表現者というアナログの媒体でしか再現することができない。

フラメンコはマイクを使わぬ表現。

あれは最高に純粋な雫で満たされる。


その点でシャンソンは残念だ。

真理子さんを筆頭に、マイクを使わずとも会場を満たす声量の持ち主は、せっかくの価値を劣化させないでほしい。


だから今なお、丸々1曲をマイクを通さぬ声で聴いた、六本木IZUMIの夜が、私の人生で忘れ得ぬ時間となっているのだ。

あれは偶然に手に入れた宝物。

いつものようにマイクを使っていたけれど、ステージ一番近くに座っていた私の真横に、真理子さんが来た。

そこに座って歌ってくれた。

マイクを通す前の、100%の江川真理子を受け取って、私は大ファンになった。



シャンソンもフラメンコも、生がいい。

生でなければ、本当の味わいとは出会えない。