福岡のゲリラ豪雨は凄かった。一般道が河川化し、那珂川が後1~2mで氾濫しそうであった。やはり、懸念した通り、相当な被害が出たようである。心からお見舞い申し上げます。

 

 この国には幸いにも戦後60年以上戦争が無かった。紛れもなく、国民と政治がそれを選択した。

 ここでいう「戦争」は、あくまで国家間、民族間、宗教間等の軍事的対立のことである。「戦争」とは広い意味では、交通戦争、自殺戦争、疫病との戦争、文明との戦争、科学技術との戦争、有害鳥獣との戦争、自然との戦争等も指す。

 今、自然と人類との新たな戦争が始まっているのではないか?と思ってしまう。未曾有の集中豪雨や各種自然災害、生態系や環境の変化等とかを体験すると、そう思えて仕方が無い。そしてそれは、多くの部分、人的災害(戦争)の要素が強い。


 選挙も票という武器を持って戦うとするのであれば、ある意味「戦争」なのかも知れない。であるなら、孫子の兵法曰く「退くことも重要」であろう。

 

 僕個人としては、まだまだ現世は修業の場である。生きること自体が「戦い」であろう。「戦い」であれば、逆風はいつかは順風になり、逆境はやがて順境になる。逆もまた真なり。また、人生や戦いの摂理はそれの繰り返しとも言える。

 人生という「戦争」は螺旋階段を昇るようなものである。上から見ると、同じ所をぐるぐる廻っているように見えるが、横から見ると、確実に上に登っている。失敗も成功も、決して不毛なものではない。


 二大政党制の中、両党とも、現時点で、国家の成長戦略や国家ビジョンは今一つ見えて来ない。以前から言っているが、外交や国家安全保障政策、景気・経済政策においては、両党とも大きな隔たりは無くなる。現実路線を追求すれば、自ずと違いは無くなる。

 だから、地方分権が争点となると言っているのだ。

 両党の「戦い」の基軸が分かり辛いとするなら、我々国民は一体誰と、何と、どこと戦うのだろう? もしかすると、「政治」、それ自体との戦いなのかも知れない。


 地方財政は、早期健全化団体や財政再生団体の声が掛かってから、更なる行財政改革に着手するのか? それとも、そうなる前に逸早く取り掛かるのか?

 人々の行動の性は、往々にして、尻に火が点いてから慌てふためく。そういう傾向にある。尻に火が点いてからしか、法的に民意的に理解されないということか? 果たして、それでいいのだろうか?

 

 この国は、自己の責任と洞察と創造力と先見性により、針路を考え、決める力に欠ける民族性であるが故に招いた悲劇はこれまで多々見受けられる。

 国家もそうであるが、人生の「戦」は、中長期の洞察力と先見性と分析力と決断力が「一時的」或いは「連続的」な勝利のカギを握る。

 そういえば、北野監督の映画のラストシーンに、こういう台詞があった。

 「俺達、もう終わりかな?」「ばかやろう。まだ始まってもいねぇよ」