19日(金)ついに座頭市を観た。1~2年前から、飲み会の度にストーリ展開や撮影手法については聞いていたので、まぁ、その確認作業という感じだった。
 今更言うまでもないが、一言で言えば、勧善懲悪、痛快娯楽時代劇ということである。これまでの師匠の作品で、師匠が執拗に拘泥したリアリズム・ナチュラリズム・ヒューマニズムの三要素を180度転換し、フィクションとエンターティンメントの姿勢を貫き、それらを徹底した作品と言えよう。 でなかったら、居合で石灯籠は切れない。 もし切れたら、敵の胴体などは全部真っ二つである。 様々な矛盾や非リアリズムが点在するが、そこら辺があくまでもフィクションであり娯楽作品なのである。
 これまでの北野作品、例えば「あの夏いちばん静かな海」や「ドールズ」でこれまでテーマになってきた障害者という視点。その視点も今回は違う視点に置かれてある所あたりも、監督の自意識や感性が今回少し変化している証左かもしれない。
 併せて、作品コンテンツとして、ドラマツルギー、ナラティブストラクチュアー等が心憎いまでに計算され、かつ戦略が練られていることといい、はたまた商業映画として、日本映画界が妄信する欧米の権威と栄誉を取得し、日本に逆輸入するという映画市場戦略といい、見事な手腕だと言えよう。また、近代合理主義と個人主義、科学技術万能主義などをベースにする欧米から見ると異端かつ脅威に映るだろう東洋・大和文化(日本古来の文化・風習・慣習)の単一民俗主義や中世封建主義文化を表象する映像と、それらを輸出する文化商業戦略の手法も見事である。加えて、これらの作品を、2~3ヶ月の間に、それも従来のテレビや雑誌の仕事をこなしながら完成させていくバイタリティとダイナミズムには感服する。
 内容としては、座頭市のパンツの中に白い粉が入っていたり、誰かが真剣を使って事故が起きたりするようなギャグが無かったことがちょっと残念だった。最後に歳を取った座頭市の横にちょこんと何故か中村玉緒さんがいてもいいな~とも思った。
 そう言えば、10年くらい前、「たけし城」かなんかで座頭市のコントをやったことを懐かしく思う。あの時、僕が座頭市で、峠の茶屋でくつろいでいると、悪漢どもが座頭市を狙って切りかかってくる。座頭市が、手元に置いてあったし込みの杖と、肥溜めの柄杓とを間違えて持って、うんこまみれの柄杓を振り回し、悪漢どもがうんこまみれになるというコントだった。それも今回は無かった~非常に残念である! 
 思えば、あの頃から師匠は座頭市のコントが大好きだった。本当はもっとギャク一杯入れたかったんだろうな~今回のが当たったので、当然シリーズになるだろう。次回は何だろう? 「座頭市」「座頭ニ」「座頭三」というのもいいだろうが、「セーラー服と座頭市」というのはどうか? 「なんとなく座頭市」というのは? 「踊る大座頭市」、山口君は「座頭市ハワイへ行く」がいいと言っていたが、「座頭市と朝顔市」というのも捨てがたいな~~  う~ん!