授業参観と思いきや、単なる保護者会。まぁ、単なるという表現は語弊・誤謬があるかも知れないが、お知らせのプリントやそれに纏わる説明に於いては、友達の父母に後で尋ねれば十分事足りる内容だった。それに出席することが、3ヶ月受けた授業の集大成である試験を放棄し、単位を放棄することに値したのか? 僕の中で疑問が残る。
勿論、子供の教育現場への父母の積極参加、あるいは父母の交流という視座ではそれなりに有意義だったのかも知れないが・・・・・・・・それにしても、父親は僕一人。相変わらずの疎外感だけで、交流も何もない会だった。
学校の先生の話で、「子供達が筆算を机にするんです」という話題が出た。瞬間、「え~!信じられな~い!」という意味の喚声が上がる。そして私語。どうして、日本人はこうも私語が多いのか? 保護者からしてこうだ。子供達の私語が無くなる訳が無い。筆算を机に書くこともそうだ。勿論、僕の娘も可能性がある。いや、彼女自身がそうなのかも知れない。明日、本人には確かめるが、きっと真相は究明出来ないだろう。
先生が、「筆算を机の上でやるんです。ご家庭で注意して下さい」と仰る。勿論する。しかし、それはまず学校でやるべきことだろう? 
この国の教育の興廃は一体どこまで進行するのだろう? マキャベリが「人間は邪悪なもの、その人間達と向き合うのが君主である」(『君主論』より)と言った。ホッブスは『リバイアサン』の中で「自然状態では、人間は万人の万人による闘争状態にある」と言った。人間はほっとくと私利私欲で動いてしまい、万人による闘争状態になるという。そこに政治や規律が必要となるのだ。
保護者会を途中で抜け出し、学校に急行した。3限の試験に5分遅れで到着。遅刻者は後ろから入れと書いてあったので、後ろから入ると、一番前にいた試験官(おそらく大学院生のバイト)の一人が、こちらに向かって、「おい、こっちに来い!」という感じで手招きをした。23~24歳くらいの、やたら太った、何を食べてればそんなに太れるのか不思議なcreatureだった。自己コントロールというのが皆無のような気がする。命令的で傲慢で、明らかに見下した手招き。まるで看守が刑囚を呼ぶような。僕は、そのままその手つきを真似して、彼に鏡として、かつ無言の抗議として見せた。「用事があるなら、お前が来い」。
しかし、いかなる理由があるにせよ、遅刻したのは僕である。百歩譲って、前に行き、答案用紙を受け取り一番前に座った。質問があったので、その試験官をさっきの手付きで呼んだ。そのcreatureは、やっと自分の態度の傲慢さに気付いたのか、急に態度が改まったようだった。一部始終を見ていた老教授は、苦笑いをして教室を出て行った。
しかし、どうしてこう試験になると学生が急に多くなるのだろう? 教室に入りきれないくらい席が混雑し、暑苦しいし、息苦しい。これじゃぁ、カンニングもし放題である。僕が先生ならこう言う。「普段、授業に出てないなら、そのまま試験にも出ないで良い。単位がそんなに欲しいなら、やるから! 暑苦しくて、うるさくて、普段真面目にやっている学生の迷惑になるから・・・・・・」
普段の授業風景をビデオにして公開したいくらいである。これが現代の大学生だと。勿論一部であることは言わずもがなである。しかし、その一部の影響が大きい。先日も、ある授業中に、机の上に置いた携帯がけたたましく鳴った。本人はぐっすりお休み中。後ろの学生が小突いても中々起きない。よっぽど、奴のところに行って、頭をどついてやろうかな? と思ったが、止めた。マナー知らずの輩に絡んで、これ以上問題を起こしたく無い。でも、いつか注意するだろう。
特に国際社会関係論。いつかこのHPでも書いたが、出席カードが前から配られる中、途中で多く盗った学生が何人もいて後ろまでカードが回らなかったあの授業である。その授業の始まり、毎回、先生が教壇についているにも関わらず、教室は新宿のようにうるさい。これもまた毎回、先生が「静かに! 授業を始めますよ!」と声を高める。毎回である。先生も良く切れないものだと思っている。これが今の大学である。
ある授業では、僕の前の席で、ずっとテーブルマジックをし、隣の女子学生に見せていた奴もいた。数年後、大学全入時代が来る。一体どうなってしまうんだろう? 松本人志氏が「徴兵制か学校での体罰復活しかない」とある雑誌で言っていたが、反対の理由が見つからない。
資源の無い我国では人的資源に頼るしか無い。その基礎は教育である。教育の崩壊は国家の崩壊を意味する。大人も駄目、子供も駄目、学生も駄目とくれば一体どうなるのか? 憂国、喫緊の問題である。
余りのストレスだったので、帰ってから駒沢を走った。久々の