11日(火)、大阪の仕事が終わり、最終の「のぞみ」で帰京の途、隣の席で、なにやら、いちゃいちゃ、これ見よがしにいちゃつくカップルがいた。こんなに公然とラブラブ振りを発揮するカップルは珍しい。それも、どうやら不倫っぽい、危ない臭いがする。 その様子を見かねてか、前に座っていたサラリーマン風の老紳士が、突然振り返り、彼らに言った。「君達、世界戦争が始まるかもしれない、この有事に、一体何をやっているんだ? 不謹慎な・・・」 言われたカップルも僕もその言葉に一瞬、唖然。 「何を言っているんだ? このオジサン!・・・世界戦争? 有事? 頭、おかしんじゃないのか? このおじさん。 新幹線の中で、堂々といちゃつくカップルも異常なら、それをたしなめるのに、世界戦争って? 荒唐無稽なことを持ち出すこのオジサンも異常だ・・・・・一体この国はどうなってるんだろう?」なんて思っていたら、オジサンの言っていることはあながち嘘ではなかった。 東京に帰って驚いた。 夜の12時過ぎ、東京駅から走って帰ったのだが、皇居、赤坂御所の周りが異常な厳戒態勢なのだ。心なしか、人通りも少ない。 家に帰って、ニュースを見ると、そこはとんでもない世界になっている。 まるでCGのようなカタストロフ映像に我が眼を疑った。 こういうことが実際に起こり得るものなのだ。 これが、現実なのだ。 圧倒的な現実を目の当たりにし、テレビの前で呆然と立ち尽くすだけだった。 資本主義と物質的繁栄の象徴、自由競争市場のシンボル、中東権益の巣窟、グローバルスタンダードの墓標、そしてアメリカ自身とも言うべき世界貿易センタービルが、目の前でゆっくりと崩壊していった。 わずか、二ヶ月前、僕らはこのビルの前にいたことが俄かに信じられない。 今度の有事を受けて識者は、口々に「近・現代が造り上げた文明への挑戦」だと声を荒げる。「アメリカが主導する国際秩序への挑戦」だと主張する。 「我々の価値観への否定だ」とも弁舌する。 ならば、「我々の価値観?」とは一体どういうものか? 市場競争原理を絶対善とし、勝者主義を励行する、快楽を満たすための消費こそが豊かであるという妄想的価値観。 人間がいつしか、物質的勝者になるために血眼になり、手段を選ばなくなってしまった資本主義社会。 それが今の世界システムである。 テロ行為はどんな場合においても、絶対に許さざるべき行為である。 しかし、今回のこの事件は、「我々の価値観」をもう一度見直す試金石になる可能性として考える余地はないだろうか? 冷戦終結以来、世界のあちこちで民族紛争が後を絶たない。 グローバリゼーションと言う名の世界文化統一主義は、民族と言う、人間の根源的な思想や形態を、ともすると蔑ろにするきらいがある。 特に、パレスチナ問題は国連の初期処理の誤作動も含め、複雑で根の深い難問に発展していることは自明である。 今回の準戦争とも言えるテロ行為に対して、世界を主導する米国が、真の指導者を標榜するのであれば、民族・宗教という哲学に正対し、平和的解決への努力を怠らない姿勢が望ましいのではあるまいか。 それには各国間でよく協議し、決して短絡的報復行為に走ることなく、21世紀の人類の平和共存を視野にいれた、最善なる行動や根気強い対話姿勢が望まれる。 米国主義を押し付けることなく、それぞれの文化や生活様式・宗教観・価値観を重んじ、共存の道を模索する。 それが、真のグローバリゼーションの布教であり、実行だと考える。