藤井誠二編著 『少年犯罪被害者遺族』 第4場 | 犯罪被害者の法哲学

藤井誠二編著 『少年犯罪被害者遺族』 第4場


第4場 司法と報道のあり方を問う ― 本村洋さんとの対話

本村洋さんの第1審判決後の記者会見は衝撃的であった。「司法に負けた」。「司法の手で死刑にできないならば、私が自分の手で殺します」。これは復讐を禁じる近代刑法の大原則の否定であり、殺人という違法行為の予告である。内容だけ見れば、弁護士会のみならず、日本中の法律家が抗議声明を出してもよさそうなものである。法治国家を真っ向から侮辱するコメントだからである。しかしながら、法曹界は完全に沈黙せざるを得なかった。

法律は建前(Sollen)である。従って、法律は真実(Sein)を恐れる。しかし、本村さんは真実を語ってしまった。加害少年を死刑にすべきだ(Sollen)と語っただけではない。本村さんが語ったことは、復讐禁止という近代刑法の大原則の暴力性である。そして、合理的で理性的な人間には近代刑法の原則が当然理解できるものだという建前の欺瞞性(Sein)である。すなわち、復讐感情は野蛮で粗暴なものであり、それは近代合理主義の対極にあるという近代社会のフィクションの欺瞞性(Sein)である。

近代刑法の限界の問題は、誰に対しても同じようにあてはまる。誰もが本村さんのような被害に遭う可能性があるという意味ではない。現実にはそのような可能性は低い。にもかかわらず、この問題は誰に対しても論理的に同じようにあてはまる。世論は本村さんを支持した。法治国家に生きる我々は、本村さんによる法治国家を真っ向から否定する発言に共感した。それは、法治国家といった絶対的な原理に頼らず、人間が自分の倫理を追求した結果である。個に徹するほど普遍に通じるという逆説がここにも表れている。

本村さんによる根本的な問題提起に対して、法曹界は完全に沈黙せざるを得なかった。答えられないからである。我が国の条文や判例は、近代刑法の大原則に従っているものであり、その根底自体を揺るがす問題には太刀打ちできない。今まで考えもしなかった深いところを突かれて、法律家は言葉を失ってしまった。もしもこの問題を深く突き詰めたならば、それまで近代刑法の大原則を信じて行動してきた法律家の実存が崩されてしまうからである。無力は無力なりに、法治国家は運営されてゆくしかない。

光市母子殺害事件は、法律的には様々な論点を提起した。少年法の厳罰化、死刑廃止論、少年への死刑の適用基準、犯罪被害者保護法制などである。当然のことであるが、どれも本村さんによる根本的な問題提起に切り込もうとはしていない。そうであるならば、そのこと自体を認めておけば済む話である。しかしながら、専門的な知識を有する法律家は、法律を知らない素人の本村さんは浅い議論しかできないのに対し、自らは深い議論をしているのだと位置づけてしまった。

国民は、感情的に本村さんの発言を支持したわけではない。論理的にそうならざるを得ないという結論を確認したまでである。「復讐感情」という四字熟語は近代刑法によって作られたものにすぎないのであれば、「復讐論理」という四字熟語も可能であろう。人間が自分の倫理を哲学的に追求するならば、近代刑法の原理は、単なるこの世の仮設的なルール以上のものではないとわかるはずである。