明治、大正、昭和前半に生まれ育った日本人は、男性も女性も、背中に筋が一本通っていました。
やっていいことと悪いことの線引きしっかりできていたからです。
「筋を通す」というのは、やるべきことはやる、やってはいけないことはやらないということの間に、明快な線を持つことです。
これほど単純明快で爽かな生き方はありません。
人が見てわかりやすい、人間としての生き方がわかりやすいのは大切なことです。
「あの人には裏がある」
「何を考えているのかわからない」
そういう生き方を最も嫌うのが元来の日本人です。
しつけとは裏表のない人間をつくることでもあるのです。
しつけは親の義務と見なされていました。
世間の人から「親の顔が見たいものだ」と言われないように頑張りました。
親の顔を見て、なるほどこの親にはあの子ありだ、と突き放されるのはたまったものではありません。
教えたのは、大げさに言えば人の「かたち」です。
それも最も基本的なあり方です。
それを外れることは不作法で無礼で、人として尊敬されません。
人を貶おとしめたり、けなしたりする。網にかけて騙したりウソをつく。あるいは弱い者を虐しいたげる。
社会のルールを守らず、自分の利になることばかり考える。
これらはいずれも「人」の道から外れた者のやることだとされてきました。
「アイツはひどいヤツだ」などと言います。
この「ひどい」というのは「非道」からきたものとされています。
自由には慎みが伴います日本人の祖先たちが何千年もかけて、このやり方が一番いいと生活の中から知恵を絞りだしてきたものが「しつけ」に生きているのです。
その集大成が私たち日本人の心であり、文化であると言っていいのではないでしょうか。
戦後の自由を生で触れた人びとの中にはまだ、やっていいこと、悪いことを線引きする「けじめ」がありました。
いくら急に自由の世になっても、日本の社会が何百年も培つちかってきたものが一晩でなくなるはずはありません。
実は、本当の自由とは、こういう状況にしっかり守られる中でしか、うまく機能しないのです。
みんながやっていいことと悪いことのけじめをしっかり持っている。
それが前提にあって初めてそれぞれが好きなことをできる。
つまり一本筋が通っている人間たちが暮らす中で、初めて自由が謳歌できるということなのです。
昔の人の自由とけじめについて、司馬遼太郎さんが「坂の上の雲」の中で、おもしろいエピソードを紹介しています。
日露戦争の時、ロシアのバルチック艦隊を日本海で迎え撃つために出撃した日本海軍の連合艦隊は、全滅を覚悟していました。
それは悲壮な戦いとなるはずでした。
戦いの前に、兵員たちに最後の思い出を残してやろうというので、ある戦艦の幹部が、船内の酒保(売店)を無料にするから、自由に飲み食いしていいという指令を出したというのです。
もちろん乗組員たちは大喜びしました。
でも、後で調べみたら全員が、パン一個と、飲み物ひとつしか手にしなかったというのです。
この慎みこそが、私たちが大切に育ててきた「心」と言えるでしょう。
自由にしていいと言われ、慎みを持ってそれを実行する。
欲張ってはいけないというしつけが身についているので、みんながすっきりした行動をごく自然にとったのです。
ちなみにこの海戦で日本海軍はロシア艦隊を圧倒し、講和への足がかりを得ました。
自由は、こういう人たちがいることを前提にしか機能しないようになっているとも言えるのです。