江戸時代の食事 | ひふみ塾 世回りブログ

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◆江戸時代の食事全般


主食は?

 江戸御府内では米が主食である。武士の俸禄である一人扶持は成人男性の食事量の1日米五合が支給される。当時の男性の平均的な食事量だったのだろう。おそらく、小兵衛たちもそれぐらい食べていただろう。健康志向の人や下級武士、庶民のように経済的に苦しい家では麦飯を食べていた。 地方では米に麦や雑穀を混ぜたものを食べて、米をご馳走だと考えていた。そのため、江戸に移り住んだ地方出身者は江戸に来て米ばかり食べ、副食を食べないことでビタミンB1不足から脚気になり、田舎に帰り元の食事に戻ると治ることから「江戸患い」という名前の奇病として知られていた。
 脚気は常時米だけを食べられる裕福な者に多い。十代将軍家治も脚気が原因で亡くなったとも言われる。
「江戸患い」は玄米を食べる人には起こらない。


普段の食事

 一汁一菜が基本で御飯に味噌汁、香の物におかずが一品つく。現在のように普通の家庭でも日常の食事に何品もおかずが並ぶようになったのは戦後の話である。
 大名の普段の食事も一汁二菜か三菜と庶民と大差はないが、武家は御家の体面や見栄を重んじるため、他家の者を招いた宴席や身内の祝い事などハレの日に贅沢な食事を出す。
 ただ、武家は親類と先祖の命日は魚肉は食べない精進日のため、何代も続く家では精進日が頻繁にあり、魚肉を食べられる日は限られる。  




豆腐と納豆

 江戸時代では食材の旬の期間しか食べられない物が多い中、豆腐と納豆は季節を問わないため人気があった。
 江戸の一丁は上方の四丁に相当し、江戸の四丁だと上方の十六丁になる。江戸の豆腐一丁は56文から60文。
 単純に60文の豆腐を毎日、四丁を食べていると計算すると月に約7200文と一両(当時の相場は銭6000文=金一両)以上も豆腐代に費やしていることになる。さすがに高すぎるため江戸の一丁と考えるのが自然だろう。
 納豆は一人前四文。文政年間(1818から1830年)は納豆と豆腐や葱を細かく切り、薬味を添えてすぐに味噌汁の具に使えるようにしたたたき納豆が一人分八文でよく売れたそうだ。


野菜

 野菜は青物と呼ばれていた。タンポポ、ハコベラなど野生種も青物に加えられていて人参、大根、里芋、茄子、胡瓜、冬瓜が飢饉に備えて栽培されていた。江戸で食べられる野菜は近郊農家が栽培したものである。おひたしか煮物、煮物、和え物にして食べる。
 練馬大根など名物野菜も江戸時代に生まれている。


魚介類

 保存技術も輸送技術も現代と比べると乏しい中、江戸前(江戸湾)は魚介類の宝庫であった。もちろん鰹や鯨、鮪など外洋魚や松前昆布、加工品は江戸前ではない。
 魚は膾(なます)、刺身、焼魚、煮物にして食べる。
 上流階級は脂が少ない白身魚を高級な物と考え好んで食べ、脂の多い赤身魚は体に悪いとして嫌う。保存技術が未発達であるため脂の多い魚は腐りやすいという事情もあるため、価格が安い。
  鰻をいったん蒸すことで余分な脂を落とし、たれをつけるという現在でも続いている料理方法が考案されると流行する。それ以前の料理法では鰻は脂分が多く、好みが分かれたのだろう。
 また、脂の多い鮪(まぐろ)は節約のために食べるようにすすめられ、余れば畑の肥料にされた。
鮪が握り鮨のネタに使われたのは天保三年(1833年)の大漁によるものである。畑の肥料してもまだ余ったのか、よほど始末に困り、やむを得ず状態がよい部分を鮨にして売ったといわれている。
 当時の料理屋で鮪は使われることはなく、まして鮪の脂身(トロ)にいたっては魚屋が捨てる部分とある。
 健康志向の現代では海外でも鮪ブームが起こり、国際会議で鮪の漁獲量の割り当てや、取引禁止の是非など鮪の資源保全を議論している。時代が変われば物の価値が一転したわかりやすい例である。
もっとも、江戸時代では魚は庶民にとって贅沢品だった。



棒手振りなど行商

 棒手振りは厳密に言えば「振売り」で魚売りだけは「棒手振り」と呼ばれる。
 決まったコースを決まった時間に通るため、自宅で待っていればよい。惣菜を振売りから買った。近隣の農家が江戸まで野菜の行商に来ることもあった。
 一人一人が扱う食品や種類は異なるが、長屋の井戸端で近所の人と話しながら待っていれば料理の材料だけでなく、日常品もある程度揃うので便利である。惣菜売りは江戸は多いが、大坂では少ない。男性が多く女性が少ないため男性の単身者が多い江戸だからこそ成立する商売のようで上方では少ない。

一日何食食べるか?

 一日二食であったが、元禄年間(1688から1704)から江戸では一日三食が定着した。経済的に余裕ができ、灯りを灯す家が増え、起きている時間と労働時間が夜に食い込んだことが要因だと考えられている。
  八代将軍吉宗は一日二食を守っていた。




 酒は灘、池田、伏見、伊丹など上方の酒を輸入していた。天明の飢饉で酒の原料である米が不足し、天明六年(1786年)には酒造制限が半分、翌年には三分の一に制限され流通量が減少した。天明三年(1783年)からは新酒の値段が天明の飢饉の影響で十二両くらいから二十両に値上がりし、お得意先に配るのを配るのをやめたそうだ。  一升から五升の酒は樽、それ以下は大きめの徳利を酒屋から借りるか自分で容器を持参した。樽は酒屋からの貸し樽が多く、使えなくなるまで何度も再利用された。 大名家では酒は薬の意味合いか食後と決まっている。空腹時に酒を飲むのは酔いが回りやすいことが理由かもしれない。


調味料

 味噌は自家製のものを作る家もあり、武家は屋敷は広いが金がなく出費を減らすために極力作っていたようだ。保存できるだけの場所がない長屋の住民は買い求める。
 人気のあった味噌は仙台藩の藩祖の伊達政宗が味噌醸造所を作らせて増産させた赤色辛口の仙台味噌、江戸近郊で作られた麦麹を使った赤味噌の田舎味噌、江戸産の江戸味噌がある。
 醤油は上方の「薄口醤油」を江戸へ輸入していたが、文化文政年間(1804から1829年)に江戸独自の食文化が確立すると江戸近郊で「濃口醤油」が作られ人気が出た。




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