村井秀夫刺殺事件の真相を追って

村井秀夫刺殺事件の真相を追って

村井秀夫は何故殺されたのか?徐裕行とは何者なのか?
オウム真理教や在日闇社会の謎を追跡します。
当時のマスコミ・警察・司法の問題点も検証していきます。
(2018年7月6日、麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚らの死刑執行。特別企画実施中。)

FNN PRIME 
「完全にいつもと違うなと」オウム真理教 村井秀夫元幹部刺殺事件~平成を撮影したカメラマン~





平成7年4月23日 オウム真理教の村井元幹部の刺殺現場を撮影したカメラマンが語る
その日は脚立に乗って遠目から撮影することを選択した
「入る時にカメラの方を見て完全にいつもと違うなと」 

平成に起きた事件・事故・災害などの現場を撮影したカメラマンが自分の目で見つめ記録した現実を、後輩の35歳のカメラマンが話を聞く。シリーズ第一弾は秋本泰男 元フジテレビ報道局カメラマン。

平成7年(1995年)3月20日、都内の地下鉄でサリンがまかれる地下鉄サリン事件が発生し、死者13人、負傷者は6300人以上にのぼった。事件はオウム真理教の関与が疑われ、山梨県の教団施設などが警視庁の強制捜査を受けた。

マスコミは当時都内にあったオウム真理教の東京総本部を24時間体制で取材していた。4月に入り、教団の幹部クラスが続々と逮捕され、教団ナンバ−2の村井秀夫元幹部に注目が集まっていた。4月23日、総本部前に待機する多くのマスコミ関係者の目の前で村井元幹部は刺され、搬送先の病院で死亡した。



秋本泰男カメラマン:
あー。ここの駐車場の所にあったと思うのですが・・・

秋本泰男(59)。当時、フジテレビ報道局のカメラマンとして何度もこの場所でオウム真理教の幹部の出入りを撮影した。

秋本カメラマン:
連日100人近いマスコミが集まって待機していました。オウム真理教の幹部の出入りがあると一斉に行ってグシャグシャになっていました。体制的には24時間張りをしていたので、雨だろうがなんだろうが誰かがここにずっといました。


都内の車通りの多い通りを1本入った比較的閑静な場所。かつてこの場所にオウム真理教の東京総本部があった。現在、ビルは取り壊され駐車場になっている。



秋本泰男(59)。当時、フジテレビ報道局のカメラマンとして何度もこの場所でオウム真理教の幹部の出入りを撮影した。

秋本カメラマン:
連日100人近いマスコミが集まって待機していました。オウム真理教の幹部の出入りがあると一斉に行ってグシャグシャになっていました。体制的には24時間張りをしていたので、雨だろうがなんだろうが誰かがここにずっといました。

村井元幹部や上祐元幹部といった幹部クラスの出入りがあると、秋本カメラマンも車で追いかけ山梨県の旧上九一色村のサティアンと呼ばれる教団施設まで行ったこともあった。
報道カメラマンたちにとって、当時この場所での撮影は日常的なものになっていた。
いつものように人の出入りを撮影すると思って撮影に臨んだ、ある日。突然の出来事に事態は一変する。




平成7年4月23日

この日、フジテレビは4、5班のカメラクルーが現場に臨んでいた。
秋本カメラマンもその一人だった。

秋本カメラマンは幹部の出入りを近くからではなく、肩ぐらいの高さがある脚立に乗って遠目から撮影することを選択した。
連日の経験から、出入口に近づくと多くのカメラマンが殺到して安定した撮影ができなくなる為、遠目にいるのが一番いいと考えた。

午後8時半過ぎ、山梨県 旧上九一色村のサティアンから村井元幹部は車に乗って都内にある総本部に戻ってきた。

秋本カメラマン:
村井元幹部は横断歩道の辺りで車を降りて入口に入る前に腕を触る仕草があって。入る時にカメラの方を見て完全にいつもと違うなと。



ーー何かが起こっているなと?

秋本カメラマン:
何でこんな変な顔をしているのだろうと。村井元幹部は無表情のところがあるので。あの顔は一生忘れないですね。


村井元幹部は1階の出入り口に向かう際、刃物を持った1人の男に襲われた。
村井元幹部は刃物で左腕と右脇腹を刺され、出入り口で苦悶の顔を浮かべながら倒れた。
直ちに病院に搬送されたが、翌4月24日の未明に死亡した。

男は犯行後、刃物を手で振り回しながら秋本カメラマンの近くまで来て刃物を捨てた。多くのカメラマンが逃げ惑う中、その一部始終を秋本カメラマンは撮影した。


ーー自分が撮影している目の前で人が亡くなったことについてどう思いますか?

秋本カメラマン:
本当に残念なことなのですが、我々がカメラを回し続けた中で、その映像を見て犯人がどうやって村井氏に接近し、どういう状況で刺されたかというものが映っていると、ここも大事なところです。
犯行が分かれば我々だって中に入って助けたいという気持ちはあります。カメラマンという前に人間ですから。 
一つの人命を助けるというのは当然のことだと思っています。
それこそ、人の命が奪われる前に何か対処ができなかったのかという後悔は今でも残っています。



秋本カメラマンは取材で何度も通ったこの場所を訪れる度に複雑な思いに駆られる。
テレビ番組でオウム事件を振り返る企画を見る度にあの建物はどうなったのだろうと気になってはいたのだが、特別な感慨はない。
「閑静な住宅街に日常が戻って良かったという思いしかない」と秋本カメラマンは言う。


<取材後記>

私は35歳のカメラマンだ。
平成の「事件」を見つめなおしたいと考えたとき、事件についての「有識者」ではなく、現場に立って見つめた人「カメラクルー」に話を聞きたいと考えた。
当時の映像を繰り返し見た。
「凶悪事件は、ごく普通の日常の延長上に、予告もなく起きる」ことを痛感した。

我々カメラマンは、何かが起きる可能性がある現場に向かう。何かが起きれば撮影に集中するが、「我々の前で、新たに別の事件は絶対に起こさせない」断固とした意志で現場に臨むことを自分自身に誓った。

平成7年、地下鉄サリン事件が発生し、国民はその関与が疑われたオウム真理教という得体の知れない団体に不安を感じていた。その実態を暴こうと連日連夜取材するマスコミの目の前で村井元幹部の刺殺事件が起きた。
犯人が連日の報道を見ていて、現場に行けば混乱に乗じて村井元幹部ら教団関係者を襲うことは容易だと考えた可能性がある。
マスコミや警察にとっては「疑惑のある人物」に目を奪われる中で、スキを突かれた形だ。
20年以上前のこの事件を振り返ることが、疑惑に直接対峙する我々メディアの取材のあり方、考える契機になればと考える。

取材・撮影・編集・執筆:石黒雄太(取材撮影部)
撮影:三浦修(取材撮影部)




モザイク加工で映し出される徐裕行。
動画では村井の腕から出血しているのが確認できる。
一方、凶器の証である徐の牛刀は何故かモザイクがかけられている。
南青山総本部跡の駐車場、近隣もモザイク加工されている。

地域住民や出所した徐への忖度だろうが、これでは資料価値が乏しくなってしまう。
しかし、何故村井の流血は修正せず、牛刀の方にはモザイクをかけるのだろうか。
FNN、石黒氏の修正基準、報道姿勢に疑問を感じさせる動画だ。


 

教団幹部であった村井秀夫さんの刺殺事件についても、教団が村井さんを殺したのではないか、と言う話がありました。村井さんの口を封ずるためだろうと言う推測です。この事件は九五年四月二十三日の夜に、青山の教団東京総本部道場前の路上で起こりました。

そこは村井さんが刺される前からマスコミと野次馬で溢れ、そんな中での事件でした。彼はすぐ病院へ搬送されましたが、翌日未明になくなりました。犯人は刺した現場で逮捕されました。

その人は、徐裕行とう人で、教団の信者ではありませんでした。教団は事件で部外者を使いませんし、村井さんは麻原氏に最も近かったとはいえ、教団が起こした事件には村井さん以外の人間が多数関わっているので村井さんだけを殺しても意味がありません、私はこの事件をテレビで見て知った直後から、教団が村井さんを殺したとは思っていませんでした。

徐さんはヤクザの羽根組の幹部の指示を受けて犯行に及んだと自供しました。徐さんの裁判では羽根組の幹部の指示があったと認められました。しかし、その幹部の裁判では幹部は指示していないということになり、無罪になったのです。捜査に関わった方から九五年当時に聞いたところによると、徐さんが羽根組に出入りした形跡がない、ということでした。おそらく無理をして羽根組の幹部の裁判をしたのだろうと思います。

 

最近、徐さんは刑期を終えて出所し、当時のことを語っているようですが、羽根組の幹部のことは全く話さず、自分の考えで事件を起こしたと言っているようです。

 

 村井さんの刺殺事件に教団が関わったのではないかと言われた理由の一つに、東京総本部道場へ入る扉のひとつに内側から鍵が掛かっていたことがあります。村井さんは道場の外の階段で地下に降りたものの、施錠されたその扉から入ることが出来ませんでした。彼は階段を昇って地上に戻り、そこの出入口から道場へ入ろうとした時に徐さんに刺されたのです。わざと地下の扉の鍵を掛け、村井さんが地下から入れないようにして犯人に協力したのではないか、そういう話がマスコミで報じられていました。最近、この件がマスコミに取り上げられたと聞きました。

 

 

 私は、九五年五月半ばに、教団関係者が身分を偽って借りていた一軒家で、この鍵を掛けた教団関係者のAさんと話をしたことがあります。私は、I君の部下B君と話しをしていました。そこにAさんが現れ、ジャーナリストの取材を受けないか、と言ってきたのです。Aさんは信徒対応が上手くて有名な人でしたが、教団内の序列は高くなく、部署も違っていたので、私が彼と話すのはこれが最初でした。私とB君が「取材を受ける気はない」と言ったあと、Aさんとは旧知の仲のB君が、何の説明もなく突然「この人が青山の地下の扉を閉めたんだよ」と半ば笑いながら私に教えてくれたのでした。教団が村井さんを殺害しそれにAさんが加担したと言う意味ではなく、徐さんの犯行にAさんが自覚のないまま協力してしまったという趣旨でした。Aさんは苦笑いをして、しかし深刻な表情で、地下の出入口の扉に鍵を掛けた経緯を話してくれました。もう詳細を覚えていませんが、偶然その時に閉めてしまったという趣旨でした。彼は「私のせいですかね」と言って何ともいえない顔をしていました。その様子からしても、教団内の地位からしても、Aさんがこの事件を事前に知っていて扉の鍵を掛けたとは思えませんでした。

 

 村井さんは私の上司でした。最後に会ったのは四月十二日。彼は「もう私は捕まるから」などと言っていました。彼は毎日のように東京の青山と山梨の上九一色村の教団施設を往復しており、彼の行動をずっとマスコミが追ってテレビで中継していました。ある日、村井さんは何故か動物園に立ち寄ったのです。その様子がテレビで放送されました。それを見ながら私は、「出家する前によく動物園へ行って。一日中ゴリラを見ていた」と言っていたのを思い出しました。彼はその日だったか。その翌日に刺されました。村井さんは動物園で見た珍しい光景を教えてくれたこともありました。

 

 

 

中川智正元死刑囚…坂本弁護士一家殺害事件など多数の教団犯罪を実行。

女性信者殺害事件の実行犯とも言われるが関与を否定。

死刑直前にオウム真理教家族の会の永岡弘行会長から女性信者殺害事件を尋ねられるも

「何ですか、それ」「永岡さん、私が今さら嘘を吐くわけないでしょう」と発言している。

 

一方、共犯者の新実智光は事件の関与を認め、上祐史浩も殺害現場に立ち会ったのを認めている。

 

 

「私の60代の母親は、95年3月20日に起きた地下鉄サリン事件の被害者です。サリンを吸い込み、築地にある聖路加国際病院に搬送され入院しました。神経が麻痺して手足に痺れが出ていました。意識がなかったこともありますし、寝たきりになったこともあります。現在は仕事に復帰して元気なのですが、真理的に後遺症が残っている状態です。

その当時、私は民族運動を標榜した政治結社に参加し、オウム真理教に街宣活動をかけていました。他の団体とも連動して、サリン事件前から上九一色村の施設や富士山総本部に乗り込んでいたんです」

 

30代の男性H氏が胡座をかいて本誌の取材に応じているのは、世田谷区南烏山にある「ひかりの輪」本部である。

 

 ひかりの輪とは、オウム真理教で外報部長を務めた上祐史浩代表(掲載当時46)が、07年5月に王蟲の光景団体アレフから独立し、設立した新教団である。オウム=麻原彰晃信仰と決別し、身寄りのない信者の救済や、オウム被害者たちの弁済などの目的で設立したとされ、教団も上祐代表も「麻原からは脱却した」と語る。

だが、公安調査庁はそうは見ていない。

設立当時、ひかりの輪の出家信者の全員がオウムの元出家信者だったことに加え、教団の目的が麻原が提唱する「衆生救済」を受け継いだものであり、上祐代表が行う説法や教材などにも麻原の説く教義が内抱されているとして、今も同庁の観察処分の対象団体としている。

 

「上祐を殺す」

H氏は、ひかりの輪の出家信者でもなく在家の会員でもないが、上祐代表の説法をたびたび聞いたり、集会に参加するシンパなのだという。それにしてもなぜ、実の母親を苦しめたオウムと関連する団体に”入信”したのか。

H氏の真意とともに、その経緯を巡ろう。

 

「サリン事件の直後は、とにかくオウムの人間を殺したい、の一言でした。麻原よりは、その時に浮かんだのは上祐代表でした・母が事件に遭って、犯人が後にオウム真理教だと分かった当時、メディアに出ていたのは上祐代表でした。これが敵だと。〈上祐代表が〉弁が立つことも、当時は気に食わなかったんです。

 

その頃の私は、上祐代表を殺そうと連日、港区南青山のオウム本部前に詰めていました。気配を消して、いかにもオタクのような感じでジッと様子をうかがっていたんです。

暴力団の実質的組員だった徐裕行が4月23日の夜に本部前で幹部の村井秀夫氏を刺殺した時も、私は1mと離れていない距離にいました。マスコミが殺到するその間から見ていたんです。刺殺までの1週間で2〜3回、徐を現場で見ています。

自分は南青山には長時間いたのですが、徐はちょこちょこ様子を見に来るという感じでした」

徐裕行は公判の中で4月20日に殺害を命令され、21日夜に下見したと証言している。22日午前中に殺害しようと現場に行ったがマスコミが多いため断念。翌23日の午前中も本部前に行ったが殺害を見送り、同日夜8時過ぎ、決行した。

 

徐とは年齢が近いし、お互いにまともな人間にはないオーラが出ていましたから気になっていました。見かければ「オッ」と挨拶程度は交わしていましたが、会話はしていません。徐は村井氏だけを狙っていたと思います」

 

サリン事件が元で、H氏と母親の生活は荒んだ。H氏は一般企業で働きながら、警察沙汰にはならなかったが「随分悪さをしました」という。そして05年には刑事事件を起こし、刑務所に3年あまり収監された。

「昨年末に出所しました。逮捕された当初はこれで人生終わりとひねくれていました。そんな時に母親が自殺未遂を起こしまして…首を吊ったのですが、縄が切れて助かりました。私が逮捕されて精神状態がおかしくなったんですね。それで目が覚めました」

 

H氏は収監歴が壁になり今も職は見つからない。母親が働き生計を支えている。

「私と母がようやく精神的に落ち着けたのは今年に入ってからでした。それまで私はオウムがいなかったら、オウムが事件を起こさなかったら、逮捕されるような荒んだ生活をしなくてすんだのにと恨み続けていたんです。でももう恨むのはやめようと最初に言ったのは母でした。自分の責任で前科を負ったのに、王蟲を恨むのは、現実を受け止めたくない”逃げ”だと騙されたわけです。私はその言葉をじっくり考えました。そしてかつての天敵だった上祐代表はどうなのか…そんな思いに至ったのです。ひかりの輪は、贖罪のために被害者に弁済しようとしている。さらに根本的な原因となった麻原から脱却しようとしているという。犯罪者の更生という意味で自分と通じるかもしれないと思ったのです」

 

H氏は服役中から、ひかりの輪が発足したことは知っていたが、オウムと同じではないかと疑問視していたという。だが苦悶の末に、インターネットで上祐代表にコンタクトを取った。その時に送ったメッセージは「出直すことは悪いことではありません、自分も今出直し人生を歩んでいます」というものだった。そして今年5月、H氏が住む千葉県にある、ひかりの輪千葉支部を訪ねたという。

「最初は何も知らない振りをして潜入しました。どう変わったのか、本当は麻原から脱却していないんじゃないかという疑念もありました。これはオウムじゃないと確信したのは、お布施の儀式でした。オウムのように全員が矯正されて多額のお布施をしているわけではなかったからです。20〜30人の信者がいた中でお布施をしていたのは3人だけでした。これを見て、自分たちの意思でやっているんだと思いました。さらに、オウムが麻原を神格化したことを反省して、上祐代表が「自分を神格化させることは決してない」と言ったのを直接聞いて、確信したのです」

 

H氏は麻原が起こしたサリン事件に巻き込まれたことで、被害者として麻原に囚われた。一方、上祐代表は帰依する存在として囚われていた。麻原との関係は異なっていたが、麻原から脱却するという目的は一致していた。

 

麻原への帰依が純化…

 こうしてH氏はひかりの輪に”入信”した。H氏は上祐代表を「ともに生まれ変わる」というシンパシーを感じている」と話すが、麻原については許すことができないと言う。

「早く刑を執行してほしい。死刑は母のような被害者には何の解決にはならない。報復でしかない。報復によって一時癒されるだけで、ずっと癒されるわけではない。ですが、とにかく命で償ってほしい。それだけです。また、そんな麻原を信仰するアレフの人たちには、生まれ変わる方法があることを知ってもらいたい」

 

(後日加筆予定)