明智光秀家中軍法と光秀軍

本能寺の変のちょうど1年前の天正9年(1581)6月2日光秀は「明智光秀家中軍法」と呼ばれる軍法を制定した

その目的は、規律厳正で上下に統制の行き届いた軍隊を作り上げることであった

軍法は18条からなり、末尾で軍法の遵守をよびかけ、主君信長への感謝を述べている

一騎打ちから集団戦へ

当時は中世末期から近世へとさしかかる時代の大きな節目であり、合戦の戦術もそれまでの一騎打ちから集団戦、すなわち多くの部隊とその将兵が、一人の総大将の命令の下で互いに一致協力する、つまり軍隊が一つのチームとして戦う「組織的戦闘」へと変化していった

その「組織的戦闘」に欠かせない条件の多くが光秀軍法に規定されているところから、光秀の目指す方向もそれであったと考えられる

重要な点は、部下の独断専行を堅く戒めていることである

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第二条は、「先鋒や協力部隊が行動を決定する場合は旗本(総大将直属の家臣)の到着を待って司令官の命令に従う」とあり、とかく独断専行しやすい先鋒にも命令が周知徹底されるように図っている

第6条には「進軍や陣地変更の際に、陣取り(陣地設営の場所を確保すること)と号して抜け駆けに士卒を派遣することは堅く禁止する云々」とし、また「危険をおかし比類ない手柄を立てても、規律に背く場合は処罰を逃れることができない(第5条)」と定めることによって、軍全体の独断専行についても堅くこれを戒めている

中世からの合戦スタイルは、戦闘というよりむしろ「手柄争い」であり各部隊とその将兵はバラバラ勝手に戦っていた

しかし、それでは集団としてのチームワークがとれず、加えて総大将の命令がスムーズに実行されない。このことは、軍隊全体の行動力と戦闘力を大きく制限する

奈良大学城郭研究会第22号(平成5年発行)参考