★映画「うたごころ」榛葉健監督の“表現者”人生のルーツ | ジャーナリスト 石川秀樹

ジャーナリスト 石川秀樹

ちょっと辛口、時どきホロリ……。理性と感情満載、世の常識をうのみにせず、これはと思えばズバッと持論で直球勝負。
3本のブログとFacebook、ツイッターを駆使して情報発信するジャーナリスト。
相続に強い行政書士、「ミーツ出版」社長としても活動中。


ドキュメンタリー映画「うたごころ」の榛葉健監督に先日、大阪でお目にかかった。


「うたごころ」は3.11の東北大震災後、毎日放送社員の榛葉さんが家庭用ビデオを回し、被災したある少女とその家族、南三陸町の人々を追い続けたドキュメンタリー映画だ。
商業映画のように広告に莫大な費用をかけられない。
上映できるかどうかもわからない。
そんな中で、Facebookで榛葉さんの活動を知った人たちが「なんとか映画を観たい」と動き出し、草の根のように自主上映の動きが全国に広がっていった。


僕が榛葉さんを訪ねたのは「うたごころ 2012年版」のあるシーンのことが気にかかっていたからだ。
昨年12月、静岡市清水区で「うたごころ(2011年版)」が上映された。
映画を観た後、会食中に榛葉さんは2012年版の話をされた。
その中に、6分30秒間、カメラ位置を変えずに撮り続けたシーンがあるという。
シーンが何秒かごとにクルクル変わる昨今のテレビ、映画の撮り方からすれば、
6分以上もカットを割らずに映し続けるのは “異常なこと”、
というのは新聞出身の僕でもなんとなくわかる。

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このシーンがどうなっているのか、それを確かめないことには僕の本は完成しない。
それで榛葉さんに直当たりしたわけだった。
予想通り、そのシーンは鈍感な僕でもすぐにわかった。
シーンの説明をしたくてウズウズしてくる。
でも、それは控えます。
ぜひこの映画を、劇場で観てください。


■    □
夜、監督とお話しした。
たくさんの話を聞いた中で、1つだけここで紹介したい。
それは榛葉健監督の“表現者としてのルーツ”に関するエピソードだ。


榛葉さんの父君は岩波映画製作所所属の映画監督、榛葉豊明(1929年-2009年 )さんである。
映画界では珍しい理系出身監督で、記録映画、教育映画、特に科学映画を手掛けた。
科学的、論理的な視点に基づく緻密なシナリオと演出でドキュメンタリーのジャンルで数々の賞を受賞している。
1952年、創立したばかりの岩波製作所に入った。
ウィキペディアの解説によると、その年同社は社員募集をしていなかった。
が、応対した役員に豊明さんは「私を採用しなかったら、後悔しますよ」と啖呵を切る。逆に認められ、採用が決まったそうだ。
反骨の人柄が伝わってくる。


榛葉健さんの子どものころの記憶。
ある日、父がコタツの向こう側でシナリオを書いていた。
父が持つ竹の定規にふと目をやると、「安保粉砕」の文字が見えた。
『アンを保ってコナをくだく?』なんのことやらさっぱりわからない。
岩波は1960年当時、インテリの常として「こんなところで仕事しているくらいならデモに行け」と社を挙げて社会正義に没頭する会社だったから、その名残の定規であろう。


後になって榛葉さんは考える。
「安保反対の気持ちがあったのなら、なぜ目の前にあった映像を撮らなかったのか。子どもの科学映画を撮るより、社会派の映画を撮る方がはるかに価値があったのではないか」
その言葉を強く父にぶつけた。
すると豊明さんは、一言も息子に反論しなかった。


父は2009年に末期がんで他界する。
榛葉さんは3ヶ月間頻繁に東京に通い、父を介護した。
映画の話になったとき、父は初めてあの時の気持ちを息子に伝えた。


父は時代の空気の中で、軍国少年だった。
呉の海軍兵学校を受験し、特攻を志願する気だったという。
ところが受験当日、激しい腹痛に見舞われて試験最中にトイレに駆け込むという始末で、合格できなかった。
おかげで戦争には行かず、戦後、日本の教育がガラリと変わったことを目撃する。
戦前の教育が間違っていたことを思い知らされた。
父が苦しい息の中でいったのは大要、以下のことだ。


「次の世代の子どもたちのためにやるべきことは、映画を通して、物事を客観的に合理的に考えられる子どもを育てること。社会派ではなく、自分が得意とする『理科』でもってそれを教えることだ」


それを聞いて榛葉さんは泣いた。
号泣した。
若気の至りでひどい言葉を父に投げつけてしまったことをわびた。
すると父は病床から身を起こし、榛葉さんの手に触れた。
そして、泣き止むまで手をさすり続けた。
『命のバトンが渡されている』ことを体感した。


「だから僕の胸の中に、父は今もいるんですね」


■    □
親子2代の表現者人生。
榛葉さんは大阪の毎日放送の現役社員である。
今は報道畑にはいない。


2011年3月11日、社内にいて大きな揺れを経験した。
それは僕も同じだ。
榛葉さんはそのとき、今すぐ現場に飛び出して行けないことをもどかしいと思った。
はやる気持ちを抑えに抑え、2か月後、自分の休暇を使って東北に行った。
家庭用ビデオ1つを携えて。


サラリーマンでありながら会社の枠を超えて、何かを伝えようとすることは、はたで考えるほど楽なことではない。
会社自体がテレビという巨大メディアを持っている。
その中で“個人”として「表現すること」のシ・ン・ド・サを、サラリーマンだった僕は痛いほど感じることができる。
サラリーマン社会では、「Social good(社会によいこと)」は必ずしも“自分にとってよいこと”にはつながらない。
定年を間近にした僕は、榛葉さんに比べればまったく“リスクのない”ところにいた。
『現場にいたい』とは思ったが、自分の役目でないとすぐに頭を切り替えてしまった。
多くの人も、そうではなかったかと思う。


そんな中での榛葉さんの行為は突出している。
血筋、ルーツ、素質の違い、ではないと思う。
表現者としての思いの強さの問題だ。
伝えないではいられない心のシンを強固にもっているかどうか。
そしてもうひとつは、「命」に対する姿勢だったろう。
『父ならどうするだろう』と、心のどこかで父親を観ていたのではないか。
だから榛葉さんは、自らに恥ずべき態度はとれなかったし、榛葉さんらしい方法で自ら決めたプロジェクトに飛び込んでいった。
迷うことなく。


■    □
たぶん今度の僕の本では、榛葉監督の行動の背後にあるこのようなエピソードを書くスペースはないと思う。
主にFacebookの効用を書くつもりだから。
でもFacebookで大切なのは、やり方、使い方、ノウハウではない。
何をやりたいのかという、その動機、決意、思いの深さだ。


榛葉さん親子2代に通じるものは「人は幸せに生きなければならない」という信念。
表現の仕方は違っていても、バトンは正しく伝わっていると思った。



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【筆者から】
このブログの元になっているのはFacebookへの書き込みです。
主にFacebookページ「ジャーナリスト 石川秀樹」に投稿しています。
ミーツ出版(株)という小さな出版社の社長をしています。61歳で行政書士の資格を取り開業しました。さらにこの数年は「ソーシャルメディアを愛する者」としてFacebookで熱く語り続けています。ブログは私の発言のごく一部です。ぜひFacebookページもご覧ください。コメントをいただけたら、こんなにうれしいことはありません。


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