「少欲知足」
兵藤 一夫(教授 仏教学)

 日本は、一九九〇年代前半にバブルがはじけて以来、成長は滞ったままであり、経済的には「失われた十年」などと言われ、日本社会全体が閉塞状況にあると言われてから久しい。さらに、一年前に東北の大地震や津波、福島の原発事故に直面した後、私たちは自らの生き方や社会のあり様を根本的に見直すことを余儀なくされている。

 その中で見えてきたのは、一九世紀初めのヨーロッパの進歩思想を根とする、「際限のない成長(特に経済におけるもの)や進歩(特に科学・技術におけるもの)」を基礎とした現代社会の根本にある価値観に対する疑問である。「際限のない成長や進歩」という考え方は、私たち人間を無限の可能性へと突き動かす原動力ではあるが、実際は欲望の本性とも相俟って止まることのない卑近な「もっと、もっと」の欲望を生み続け、いつも現状に満足しない状況を生み出していたのである。

 仏教は、欲望に内在するこの「もっと、もっと」という本性に気づき、先ずそれを止めるために「少欲・知足」ということをもって、生きる出発点としてきた。「少欲」とはいまだ得られていないものを欲しないことであり、「知足(足るを知る)」とはすでに得られたものに満足し心が穏やかであることである。唐の時代の代表的な仏教僧である玄奘(げんじょう)は「知足」をさらに踏み込んで「喜足(足るを喜ぶ)」と訳し、「少欲・喜足」とする。このほうが内容に適った訳語ではあるが、一般には「知足」が受け入れられている。

 私たちは、物や知識や名誉・地位などの中、すでに得ているものに対してはもっと良いもの、もっと多くのものを欲しがり、いまだ得ていないものに対してはそれを得ようと欲する。したがって、欲望とは現状に満足しないことと表裏の関係にあり、逆に言えば、満足を知り、喜ぶことによってこそ欲望が減少するのである。「少欲知足」と言われる所以である。

 「少欲知足」は、これまでは何か高徳でストイックな生き方を示す語として敬遠される傾向にあった。しかし、成長や進歩を考え直さなければならない今こそ、自分自身や社会が真剣に受け止めるべき語であろう。

(『文藝春秋』2012年4月号)

【別の文献】

「少欲にして足るを知る」
『涅槃経』「師子吼菩薩品(ししくぼさつほん)」(『大正大蔵経』第12巻P.526)

 この夏以降、個人の身勝手な欲望にかられた殺人や傷害などの残忍で痛ましい事件が、日本各地で頻発しました。自然界に目を向けても、記録的な猛暑となって真夏日が9月の下旬まで続き、また例年になく多くの台風が日本を襲い、洪水や森林破壊、土砂災害などの被害をもたらしました。このような異常気象が、地球温暖化に由来することも指摘されています。そして、地球の環境を破壊しつつあるこの温暖化の原因のひとつが、物質的な豊かさを飽(あ)くことなく追求してきた私たちの物欲にあります。現代の緊急な課題として、改めて人の「欲望」の問題に思いを致さざるをえません。
 
 経済が何よりも優先される、いわば「欲望の時代」にあって、従来の日本では、欲望が充足される豊かな生活のなかにこそ幸せがある、と信じられてきました。それ故にこそ、これまで日本は物質的に豊かな社会を実現するために邁進(まいしん)してきたのでしょう。しかし、今日では、欲望の充足が必ずしも豊かで幸せな生活を約束しないということに、私たちはうすうす感づいています。

 人の身勝手な欲望は底なし沼のように尽きることがありません。一つの欲望が充足されても、欲望は自己増殖的に新たな欲望を生み出し、無限にふくらんでゆきます。釈尊はそのような本質をもつ欲望を「貪欲(とんよく)」とみて、もろもろの苦を生み出す原因であると教えています。

 釈尊に「少欲知足(しょうよくちそく)」〔少欲にして足るを知る〕という教えがあります。「少欲」とは、欲望にふくまれる問題点に無自覚なまま、単純に欲望を肯定し、ほしいままに欲望に従う生き方にたいする誡(いまし)めのことばです。また、「知足」(足るを知る)とは、自己中心的な欲望に執(とら)われたわが身のありかたを深く省みることを通して、真に心が満たされるような願いに目覚め、生きることをいいます。「少欲知足」という一見消極的な響きをもつことばに、欲望の問題を考えるうえで重要なヒントが含まれているのです。