以下引用

 

■■ Japan On the Globe(391)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

        Common Sense: すぐに謝る国、絶対謝らない国

                     日本人がすぐに謝るのは、罪と罰に関する
                    独特の感じ方があるからだ。
■■■■ H17.04.17 ■■ 33,007 Copies ■■ 1,560,728 Views■

■1.謝らない中国■

     中国の反日暴動が燃えさかっている。日本大使館や日系商店
    に投石して窓ガラスを割り、日本人留学生をビール瓶や椅子で
    殴って怪我をさせた。

     当然、日本政府は謝罪と賠償を要求したが、中国外務省の報
    道官は「日中関係が今日のような局面を迎えた根源は日本側に
    あるのは明かで、日本は反省に値する」と述べた[1]。これほ
    どまでの厚顔ぶりに、怒りを通り越して、呆れてしまう日本人
    も多いのではないか?

     中国は絶対に謝罪しない国のようだ。原潜の領海侵犯でも、
    サッカー・アジアカップでの暴動でも、あれこれ理由をつけて
    結局きちんとした謝罪はしていない。

     朝日新聞などは従来から「日本側が歴史問題に関して、心か
    らの反省と謝罪をしないから、中国側の理解を得られない」と
    いう論理を振りかざしてきた。しかし、そんな理屈も、絶対に
    自分の非を認めず謝罪をしない中国側の態度に色あせてきた。
    こういう国に謝罪しても、後でどう利用されるか、分からない
    からである。

     世の中には絶対に謝罪をしない国や国民がある。そして世界
    的に見れば、どうもこちらの方が普通のようなのだ。

■2.謝らない文化■

     東洋大学の社会学部の長野晃子教授の著書「日本人はなぜい
    つも『申し訳ない』と思うのか」には、この点を関する極めて
    興味深い体験談が出てくる。[1,p137]

     ある時、長野教授はフランス人4人と食事をするために、6
    時半に待ち合わせをした。しかし、待ち合わせの時間と場所を
    指定した張本人のフランス人D氏がなかなか現れない。寒風の
    中を30分以上待たされて、ようやくD氏は7時過ぎに現れた。

     D氏が腕時計を見て「ああ間に合った。約束は7時だったよ
    ね」ととぼけたので、3人のフランス人の猛烈なブーイングが
    始まった。それでも遅刻したD氏は最後まで謝らなかった。
    顔を真っ赤にし、おでこの血管をピクピクさせ、寒い季節だっ
    たのに、頭から湯気が立つほど汗びっしょりになりながらも。

     長野教授はその光景を見ながら思った。「申し訳ない」とD
    氏が一言いえば、待たされた方も気が済むだろうし、本人も気
    が楽になるのに。謝らない文化もなかなかストレスがたまるの
    だな、と。

     D氏が日本人だったら、まずは「申しわけありません」と謝
    るだろう。そして「タクシーを飛ばしてきたのですが、交通事
    故で道路が渋滞していたものですから」などと遅れた理由を説
    明する。このように自分の責任ではない不可抗力の原因でも、
    とにかく謝るのが日本人の流儀である。そして「それなら、仕
    方がないよ」などと、待たされた方も許す。

    「誠意を持って謝罪すれば、許してくれる」というのが、日本
    人の考え方だ。朝日新聞流の「心からの謝罪をしないから、許
    してくれない」というのはこれの裏返しで、すぐに謝る日本人
    の心理を巧みについたプロパガンダなのである。

■3.「30年後に罰されるであろう」■

     罪や謝罪に関する日本と欧米の違いを、長野教授は民話など
    を対比させつつ、明快に解き明かしている。たとえば、中世の
    欧州には次のような民話があった。

         貧しい若者が金持ちの娘と結婚したいと思うが、娘は若
        者が貧乏なのが気に入らない。そこで若者は商人を殺し、
        財産を奪う。娘が若者にどういう罰を受けるのか聞いてく
        るように言う。若者が殺した商人の墓に行くと、商人は起
        きあがって、神に裁きを求める。すると天から「30年後
        に罰されるであろう」という声が聞こえた。

         娘は若者との結婚を承諾し、二人は幸せに暮らす。30
        年後に罰が下り、二人の屋敷は瞬時に地中に没し、その跡
        は湖になった。

     この話は教会でお説教に使われたという。「殺すなかれ」
    「奪うなかれ」という神の掟を破った罪として、若者が死後、
    永遠に地獄の業火で焼かれ、苦しんでいる事を伝えて、戒めと
    したのだろう。

■4.コインロッカー・ベビーの怪談■

     これに対して、次のような日本の現代の怪談を対比してみよ
    う。

         東京で、ある女が「遊んでいる」うちに子供ができてし
        まった。一人で生み落とし、赤ん坊を東京駅のコインロッ
        カーに入れ、カギをかけて、棄ててしまった。女はそれ以
        来、東京駅には近寄らなかった。

         数年後、就職した女は上司の命令で、東京駅近くの取引
        会社に書類を届けることになった。ためらいながらも、あ
        のコインロッカーの前を通ると、小さい男の子がうずくまっ
        て泣いていた。周りの通行人は、なぜか、その子に目もく
        れずに通り過ぎていく。

        「どうしたの?」と女は聞いたが、返事がない。「お父さ
        んは?」と聞くと、「分からない」と下を向いたまま、泣
        いている。「お母さんは?」と聞くと、男の子は顔を上げ、
        「お前だ」と言って、消えてしまった。

■5.罪と良心の呵責■

     以上の二つの話を比べてみると面白い。欧州の民話では、殺
    した商人が起きあがっても、若者は謝るでもなし、怖がるでも
    ない。その後も、若者と娘は良心の呵責をまったく感じずに、
    30年間も幸福に暮らす。そして30年後に受けた罰は、屋敷
    もろとも地中に埋められるという、きわめて「物理的」なもの
    だ。

     一方、日本の話では、殺した子供が姿を現す所に最大の恐怖
    感がある。しかし子供は単に現れて消えただけで、物理的な危
    害を加えるわけではない。なぜ、これが怖いのだろうか。

     それは、やはり女に自責の念があるからである。そして、こ
    の後も死ぬまで女は良心の呵責に苛まれるだろう。したがって
    日本の罰は良心の呵責や、それに基づく恐怖という、自らの内
    心から来る心理的な罰である。

     欧州では、罪は「殺すなかれ」「奪うなかれ」という神のル
    ールを破った事であり、その結果として神から物理的な罰を与
    えられる。裁き手は外部にいる神である。

     日本では、罪とは相手に害を与えることであり、その結果、
    受ける良心の呵責が心理的な罰となる。裁き手はあくまでも内
    心の良心なのだ。

■6.欧米では自首はきわめて珍しい■

     商人を殺した若者に見られるように欧米諸国では犯罪者が自
    分の罪を悔いて自首することはきわめて珍しいそうだ。

     フランスのある判事は、自首は自分の利益に反する行動であ
    るから、はなはだ希であって、もし自首して来た者があったら、
    その者が精神異常者でないかどうか調べなければならない。精
    神異常者でないならば何の目的で自首してきたのか調べなけれ
    ばならない、と手厳しい。そして自首の80パーセントは嘘だ
    と断定する。

     日本での自首は殺人罪については、捜査の手掛かりの6パー
    セントが自首によるものだそうだ。そして捜査官に「申し訳な
    い」と心を開いて自首するものが大部分なので、自首に嘘が多
    いということはないそうである。[2,p129]

     自首の一例として、元暴力団員が金目当てに犯した11年前
    の殺人事件を自首した例が挙げられている。被害者が毎晩、夢
    枕に立って自首を勧め、男は罪の意識で酒浸りになっていたと
    いう。まさにコインロッカー・ベビーの実話版である。

     この男は、自首して洗いざらい告白した結果、ほっとした表
    情になったという。罰とは内心の呵責なので、心からの謝罪を
    相手が受け入れてくれれば、罰が緩和されたと感じるのだろう。

■7.アダムとイブの責任転嫁■

     それに対して、欧米では罪は神の定めたルールを破ることで
    あり、その罰も神から与えられるとすれば、加害者が被害者に
    謝罪するという意味合いはあまりない。欧米における罪と罰が
    極めて論理的物理的なもので、謝罪とか、内心の呵責などとい
    う心理的なものは、ほとんど出る幕がないようだ。

     この事は聖書の「原罪」のシーンを読むとよく分かる。神は
    アダムとイブをエデンの園に住まわせたが、「善悪の知識の木
    の実は、決して食べてはならない」と命じた。しかし、イブは
    蛇にそそのかされて、いかにも美味しそうに見える知識の木の
    実を食べてしまい、アダムもそれを渡されて食べた。

     神がそれに気がついてアダムを問いつめると、彼は「あなた
    がわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って
    与えたので、食べました」と答える。自分が罪を犯したのはイ
    ブのせいだと責任転嫁し、さらにそのイブは「あなたがわたし
    と共にいるようにしてくださった女」だと、暗に神にも責任が
    あるかのような口ぶりである。

     神が今度はイブを問いつめると、イブも「蛇がだましたので、
    食べてしまいました」と、負けじと蛇に責任転嫁する。こうし
    たやりとりの結果、神は蛇には地面を這いまわらせるという罰
    を与え、女には産みの苦しみを、男には生涯食べ物を得る苦し
    みを罰として与えた。

     この人類最初の「原罪」からして、アダムもイブも責任をた
    らい回しにして、何ら謝罪していない点に改めて驚かされる。
    罪と罰の決定に、謝罪や内心の呵責などはなんら関係ないよう
    だ。

     これが日本の民話だったら、アダムはすぐにはいつくばって
    神に「申し訳ございません」と謝り、イブは「いえ、そそのか
    したのは私です。罰は私だけにお与え下さい」などとアダムを
    かばう。神は二人の「神妙さ」に感じ入って、死罪一等を免じ
    て、楽園追放に処した、という所であろう。

■8.日本と欧米との罪の違い■

     もう一つ、日本人の腑に落ちないのは、なぜ知識の木の実を
    食べることが罪なのか、という事である。たとえば、神がこの
    木の実を大切にしていたので、それを食べられてしまって悲し
    んだというなら、日本人にも罪だと納得できる。神に迷惑をか
    けたからである。

     しかし、聖書にはそのような記述は何もなく、単に神が食べ
    てはいけない、と言っただけで、それが罪とされたのである。
    いかにもおいしそうな木の実を見せつけておいて、食べたら罰
    する、というのは、日本人には一種のイジメのように見える。

     欧米人にとっての罪とは、神あるいは法律が禁じた事をなす
    ことである。それに対して、日本人の罪とは他者に危害や迷惑
    を与えることである。

     この違いが鮮明に現れるのが、自殺を罪と考えるかどうかで
    ある。欧米では自殺を罪とする。「殺すなかれ」というモーゼ
    の十戒の一つに違反するからである。多くの日本人はこれを
    「他者を殺すなかれ」という意味だと誤解しているが、欧米人
    は自分も殺してはならないと理解している。それに対して、日
    本では自殺自体はそれが他者に迷惑をかけない限り、罪とは考
    えない。

     女子中学生の援助交際なども、「誰にも迷惑をかけていない」
    などと正当化する言い分があったが、これも「罪とは他者に迷
    惑をかけること」という日本的な考えが無意識の底にあるから
    である。欧米なら「姦淫をしてはならない」と十戒にあるから
    罪である、という事になる。

     ちなみに、援助交際が罪である理由をこう説明してはどうか。
    「君をここまで育ててくれたのは、両親や社会のおかげで、そ
    の君が立派な大人になって社会に恩返しできるようにならなけ
    れば、両親を悲しませ、社会に迷惑をかけることになるのだよ」
    と。

■9.すぐに謝る国、絶対に謝らない国■

     罪とは他者に迷惑をかけることであり、そこから良心の呵責
    に苛まれる事が罰である。そして相手に謝ってそれが受け入れ
    られれば、罪も罰も消える。こういう日本人の感じ方は、子供
    の頃から教え込まれたものである。たとえば小学校1年生の道
    徳の教科書には次のような話が載っている。

            (男の子がだれもいない部屋でコップをひっくり返す)
        「あっ、こぼしちゃった」
            (テーブルの下に猫がいる)
        「そうだ、たまのせいにしよう」
            (そこへお母さんがやってくる)
        「ぼくのせいじゃないよ」

          おかあさんは、ぼくのかおをじっとみて、さびしそう
         に、「そう」といいました。そうしたらぼくも、きゅう
         にさびしくなってしまいました。[2,p57]

    「ぼく」がさびしくなったのは、お母さんが自分のせいでさび
    しそうな顔をしたからだ。そういう思いをさせて、お母さんに
    迷惑をかけた事に「ぼく」は自責の念を感じる。

     しかも、お母さんがさびしく思ったのは、コップをひっくり
    返した事よりも、「ぼく」が素直に謝らなかったことだ。こう
    いう話を読んだ子供は、人に迷惑をかけたら素直に謝るべきだ
    という事を学ぶ。そして心から謝れば、その罪は許される、と
    思いこむようになる。

     日本人の罪と罰、謝罪に関する感じ方は、子供の頃からのこ
    うした教育によって育てられたものであろう。しかし、これは
    あくまで日本文化に根ざしたものであり、世界の多くの文化で
    はそうではない事を知るべきだ。

     素直に謝っても、それを受け止めてくれない国民、あるいは
    逆手にとって悪用する国民がいる事を我々日本人は知らなけれ
    ばならない。同時に他国に迷惑をかけても素直に謝らないこと
    が、日本人の心にどれほどの不信感を引き起こすかを、中国政
    府は知るべきである。
                                         (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(073) 親善外交の常識
    謝罪と朝貢の対中外交では、真の独立国家間の友好関係は築
   けない。
b. JOG(170) 個人主義の迷妄~「国民の道徳」を読む
    奉仕活動をする青年も、援助交際をする女子高生も、同じく
   「個人の尊厳」では、、、

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
1. 産経新聞「中国、謝罪・賠償を拒否」、H17.04.13
2. 長野晃子『日本人はなぜいつも「申し訳ない」と思うのか』
   ★★★、草思社、H15

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「すぐに謝る国、絶対謝らない国」について 

                                           「さと」さんより
     ヨーロッパに住んで12年、現在フランス在住の日本人です。
    当初英国に住んでいた時は英国人との意識の違いを多少なり感
    じましたが、その時は何故違和感を感じるのかがわかりません
    でした。その後渡仏し、ようやくその理由が分りました。本日
    のJOGの内容通り、こちらの人達は自分のミスを認めまいと、
    必死で『言い訳』して正当化するんですね。

     本当にいつもそんな子供だましのような言い訳で『言い逃れ』
    しています。例えば散歩中の犬が歩道にフンをしたのを注意さ
    れると犬のせいにしてみたり、順番を守って並んでいるところ
    に横入りして注意されると初めて気が付いたように他の人が見
    えなかったと言ってみたり。

     ただ、一つだけ救いなのは、私が日本人だということです。
    ある程度教養レベルの高い人なら日本文化についてよく知って
    います。そういう人たちとだと話が割とスムーズに行きます。
    やはりこの日本特有(?)の考え方や精神に共鳴出来るからな
    のではないかと思います。私も渡仏当時はカルチャーショック
    で3年ほど落ち込みましたが、その後、自分が日本人らしく正
    直でいれば必ずそれを評価してくれる人がいるということが分っ
    て、変に間違った形でかぶれるのはやめようと思いました。実
    際、日本人というだけで得をすることが日常茶飯事ですから。
    素直さや謙虚さなどの真理はどんな人の心も動かすという証で
    はないかと思います。

■ 「地球市民」や「国際人」の概念の刷り込みは非常に危険
    (Kazyさん)

     今週号はタイムリーな話題を深く掘り下げて戴き、とりわけ、
    感銘を受けました。拝読していて、文中の「罪とは相手に害を
    与えることであり、その結果、受ける良心の呵責が心理的な罰
    となる。裁き手はあくまでも内心の良心なのだ。」のくだりに
    はうなずかされることしきりでした。同時に、そのような高貴
    な考えを育んで来た先人達に感謝の意を禁じえないと共に、そ
    れを捻じ曲げて利用する輩どもへの抑えがたい憤りを感じまし
    た。

     国内と国外で違うやり口で人に接さなくてはならないのは、
    ある意味で残念なことですが、仕方の無いことと割り切って、
    その中で、お互いにすり合わせを行って、友情を築き上げてい
    くしかないのかとも思います。

     その意味で言うと、最近、特に、初等教育ではびこっている
    「地球市民」や「国際人」の概念(或いは幻想)の刷り込みは非
    常に危険なものでもあるようにも思えました。国内と国外の基
    本的な思想・思考の違いを教えず、ただ、国の概念さえなけれ
    ば世界の人たちと仲良くできるなどと言うのは幻想にしか過ぎ
    ません(ジョン・レノンの「Imagine」を放送禁止にしている国
    が有るということがこれを如実に示していると思います)し、
    一歩間違えば、彼らの世代に対して「亡国の民」となる苦しみ
    を与えかねないものではないかとも思い、ふと背筋が寒くなり
    ました。

    追伸:

     今号に於いて、同時に思ったことは、何故、日本人は、その
    ような思考(ある意味で哲学と言っても良いかもしれません)を
    持つに至ったのかということでした。その際に思い出したのは、
    以前に、知人の神職の方から聞かされた「日本の神道は、森羅
    万象はおろか物に至るまで全て神の分御霊(わけみたま)である
    との考えに則っている。」との言葉でした。対峙する相手は神
    様の分御霊であり、そして、自らも神様の分御霊であるとすれ
    ば、相手に害を与えることはすなわち、神の分御霊に対しての
    害であり、そして、それは、同時にまた神の分御霊である自ら
    の存在をも貶めるものだ、と考えると不思議に筋が通るように
    思えました。同時に、先日、環境問題で来日していた国連高官
    の挨拶に出てきて話題を呼んだ「勿体無い」の考えにもつなが
    るのではないかと愚考致しました。

        【伊勢雅臣】「お互いに神様の分御霊(わけみたま)だか
        ら、相手を傷つけることは、自分をも貶めること」という
        考えには、非常に共感しました。

■ 対外的には、問題があればきちんと言い、指摘すべき
    (幸人さん)

     ドイツ語でも、日本語で言うところの”ごめんなさい”には、”
    すみません”と”残念です”というニュアンスの2種類の言葉
    があります。自分に非がないと本人が考えている場合には、”
    残念だね”という表現しか使いません。以前とても身近かな例
    がありましたので御紹介させていただきたくメールを差し上げ
    ました。

     以前ラップトップ用のインターネットカードを購入しました
    が、どうにも繋がりません。平日の16時までしかサービスを
    受け付けてもらえないために、一ヵ月後お店に持って行って分
    かったのは、カードの初期不具合だったということです。もち
    ろん後日新しいカードを送ってもらえたわけですが、その間、”
    すみませんでした”とも”残念です”とも声を発した人はただ
    の一人も居ませんでした。またさらに後日、カードが使えなかっ
    た期間の請求書が堂々と送られてきました。それに対して苦情
    を電話で伝えましたが、”整備に確認しましたがおっしゃると
    おりです。クーポンをお送りしますからそれでよろしいですね。”
    との返事で、ここでも”すみません”の一言もありません。と
    ても”事務的”であり”他人事”なのです。

     伊勢様は、”中国政府は、素直に謝らないことが日本人にど
    れだけ不信感を起こすことを知るべきだ”とおっしゃっておら
    れましたが、私個人の意見は違います。不信感を持っているの
    であれば、”あなたたちの発言や干渉にはわれわれは大変失望
    している”とはっきり発言しない限り分かってもらうことはで
    きません。アメリカよりも考え方がずっと日本に近いヨーロッ
    パですら、この日本型思考を理解してもらうことは不可能です。”
    コーヒーかお茶か”と聞かれて、”どちらでもいい”ではだめ
    なのです。それを分からせようとする試みというのは、中国に
    対して無駄に終わるどころか、逆に他国からもただの押し付け
    として不信感を買うだけです。結局、日本という国は普段は謝っ
    てばかりいて、それで突然”キレル”摩訶不思議な国のままで
    す。

     日本人の考え方だけが世界の常識から大きく外れているので
    すから、日本人の方こそ同じ土俵の上に立つ努力をすべきでは
    ないでしょうか。対外的には、問題があればきちんと言い、指
    摘するとことを習慣にすべきだと思います。それを日本人が知
    識として持った上で、相手が理解できる形で発言をすることが
    一番大切なことなのではないでしょうか。ただ相手を非難する
    ことよりも、相手が分からないのであれば、自ら相手が分かる
    ところまで歩み寄って発言をすることが、国際社会でのコミュ
    ニケーションのマナーであり、スタンダードのはずです。

        【伊勢雅臣】謝らない相手には、きちんと謝らせることが、
        国際常識としても必要ですね。そのためにも中国政府が謝
        らないことが、どれほど日本人の不信感を助長しているか、
        知らしめるべきでしょう。

■ 中国人はなぜ謝らないのか? (匿名希望さん)

     ヨーロッパ在住の者です。とても興味深く読ませて頂きまし
    た。私も、絶対に謝らない人たちに囲まれて、辟易としていま
    した。何でも人のせいにするので、人間不信に陥りそうでした
    が、この説明で、納得できました。でも、分からないのは、中
    国はキリスト教の文化ではないと思いますが、なぜ謝らないの
    かということです。自分がいつも中心、正しいと思う「中華思
    想」によるものでしょうか?

        【伊勢雅臣】第一に、この「中華思想」があるでしょう。
        第二に「共産党政府としての無謬神話」、第三に共産主義
        で仏教や儒教を根絶やしにしてしまった事から来る他者へ
        の思いやりのなさ。第四に、すきを見せればすぐに足を引っ
        張られるというハイテンション社会。第五に多民族社会。
        どうも現代中国は謝らない国としての五冠王のようです。

■ テレビでえらい人たちがペコリペコリと頭を下げるたびにうん
   ざり(マルコさん)

     良心が何に由来するかと言いますと、わたしは惻隠とか
    COMPASSION(同情)すなわち相手の立場や心情を洞察する心的
    能力に由来すると考えており、そのような能力が文化や人種間
    でさほどの優劣があるとは思えません。(惻隠は中国語だし、
    良心も同情も明治時代に欧米から輸入した概念です。むかし見
    たテレビで、ボノボという猿も妹をかばう行動をしていて感動
    しました。)

     ただ社会的に表面に現れる形式としてどの程度生かされてい
    るかという点において、日本はかなり恵まれているとは思いま
    す。

     その理由としてはおそらく島国の単一民族で異民族との抗争
    をほとんど経験していない平和な農村共同体であったと言う歴
    史が、成員どうしの信頼感の高い社会を形成した幸運のおかげ
    であろうと思います。(今はどうでしょうか?)

     しかしながらどんな美しい形式もその精神を失った瞬間に、
    かえって醜い偽善に堕するものであるということを忘れてはな
    らないと思います。

     わたしはテレビでえらい人たちがペコリペコリと頭を下げる
    たびにうんざりしております。厳しく責任を追及していただき
    たいと思います。

        【伊勢雅臣】謝れば許してくれる、という美風を悪用する
        輩には、厳しく責任を追及しなければなりませんね。

© 平成16年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.