井上和彦(ジャーナリスト)
 
 インパール作戦。現代日本では、大東亜戦争における無謀な作戦の代名詞の一つとして批判にさらされ続けている。だが、インドではこの戦いを「インパール戦争」と呼び、対英独立戦争の端緒として位置づけられており、英国と戦った日本軍はいたく感謝されているのだ。しかし残念なことに、このことは日本でほとんど知られていない。
 
 昭和19年3月から始まったこの戦いは、日本軍総兵力7万8千人と、日本軍の支援で創設された「インド国民軍」(INA=Indian National Army)約1万5千人の将兵が、インド東端に位置する英印軍の要衝インパールを攻略すべく、ビルマ(現ミャンマー)を超えて進撃した一大作戦であった。目指すは首都デリー。その目的は、英国からのインド解放と独立だった。
 
 この「インド国民軍」とは、大東亜戦争開戦劈頭(へきとう)のマレー半島攻略作戦時に、日本軍の呼びかけに応じて投降した英印軍の中のインド人兵によって編成された軍隊組織で、その目的は英国からのインド独立であった。もちろん、それゆえに士気は高く、日本軍将兵とともに各地で勇猛果敢に戦った。
 
 緒戦、日印連合軍は各地で大激戦を繰り広げ、場所によってはインド国民軍だけで英軍と戦闘を行った。こうして、インド国境を越えて進撃する日本軍とインド国民軍は各地にインド国旗を打ち立て、首都デリーへの進撃を誓い合ったのだった。
 
 シンガポールでインド国民軍を指揮したのは、国民的英雄スバス・チャンドラ・ボース。今でもインド国民から「インド独立の父」として尊敬を集めており、首都デリーの中心部にはボースの大きな銅像が建つ。銅像のボースは、かつての英植民地支配の象徴であった城塞レッド・フォート(赤い砦)の方角を指さしており、ボースの独立への闘志がうかがえる。
 
 だが敢闘むなしく、日印連合軍は、圧倒的物量を誇る英印軍に大敗北を喫したのである。日本軍は、補給を重要視せず、結果として3万人の戦死・戦病死者とその同じ数の戦傷者を出したのだから無謀な作戦というそしりは逃れられまい。そして現代でも、この作戦を指揮した軍上層部への厳しい批判は止むことを知らない。
 
 だが、それでも日本軍将兵は今も地元の人々から尊敬を集めていることに驚かされる。
ムガル帝国時代の城塞で英国軍が大本営として接収したレッド・フォート(ゲッティイメージズ)
ムガル帝国時代の城塞で英国軍が大本営として接収したレッド・フォート(ゲッティイメージズ)
 そして、インド解放のために英軍と戦った日本軍将兵に対して、インド国民軍全国在郷軍人会代表で元インド国民軍S・S・ヤダバ大尉は、1998年1月20日にこう記している。
 

 われわれインド国民軍将兵は、インドを解放するためにともに戦った戦友としてインパール、コヒマの戦場に散華した日本帝国陸軍将兵に対してもっとも深甚なる敬意を表します。インド国民は大義のために生命をささげた勇敢な日本将兵に対する恩義を末代にいたるまで決して忘れません。われわれはこの勇士たちの霊を慰め、ご冥福をお祈り申し上げます。

(靖国神社 遊就館)
 
 さらにインド最高裁弁護士のP・N・レキ氏は次のような言葉を残している。
 

 太陽の光がこの地上を照らす限り、月の光がこの大地を潤す限り、夜空に星が輝く限り、インド国民は日本国民への恩は決して忘れない。

 
 かつてインパールを取材した私の友人は、そのときの話をしてくれた。
 
「とにかく多くの人々が口をそろえて言っていたのが、『日本兵士は強かった。勇敢だった』ということです。中には『これほど高貴な軍隊は見たことがない。神のようだ』とも語っていたんです」
 
 さらにこの友人は、日本軍将兵が今も尊敬されている理由について、こう話してくれた。
 
「そしてもう一つは、やはり日本軍の規律の厳しさではないでしょうか。というのも、どの人に聞いても『日本兵は、悪いことは何もなかった』『日本兵はみんな親切で、礼儀正しかった』と言っていたんですよ」
 
 大東亜戦争後の昭和20年11月、英国はインパール作戦に参加したインド国民軍の将校3人をレッド・フォートにおいて裁判に掛け、反逆罪として極刑に処そうとした。だが、その事実が人々に伝わるや、インド民衆が一斉に蜂起して大暴動に発展したのである。
首都デリーに建つチャンドラ・ボースの銅像(筆者撮影)
首都デリーに建つチャンドラ・ボースの銅像(筆者撮影)
 なんと英軍の対日戦勝パレードがボイコットされ、弔旗が掲げられたという。こうした独立の機運はどんどん高まっていき、もはや事態収拾が不可能と判断した大英帝国はついにインドに統治権を返還。1947年(昭和22)8月15日、インドは独立を勝ち取ったのだった。
 
 インパール地方には、地元民が建てた日本軍将兵のための慰霊碑があり、前述の近郊のマパオ村では、『日本兵士を讃える歌』という歌が今でも歌い継がれているというから驚きだ。

 

 

 激戦地の一つであったマニプール州の2926高地近くのグルモハン・シン氏はこう語る。
 

 日本の兵隊さんは命を張って私たちを戦場から逃し、戦ってくれました。いまこうして私たちがこうして生きていられるのも、みんな日本の兵隊さんのおかげだと思うと感謝の気持ちでいっぱいになります。一生この気持ちは忘れることはできません。

 
 そして、この丘の麓のロトパチン村には、現地の人々によって建てられた日本兵の慰霊塔があり、毎年日本兵の供養が行われているという。この慰霊塔建立の推進役となったロトパチン村のモヘンドロ・シンハ村長はこう語っている。
 

 日本の兵隊さんは飢えの中でも実に勇敢に戦いました。そしてこの村のあちこちで壮烈な戦死を遂げていきました。この勇ましい行動のすべては、みんなインド独立のための戦いだったのです。私たちはいつまでもこの壮絶な記憶を若い世代に残していこうと思っています。そのためここに兵隊さんへのお礼と供養のため慰霊塔を建て、独立インドのシンボルとしたのです。

 
 また、別の激戦地コヒマでも同じく、日本軍は称賛されている。日本軍が去った後にコヒマに群生しはじめた紫の花が「日本兵の花」と名づけられ、そして日本軍兵士によって仕留められた英軍のM3グラント戦車が「勇気のシンボル」として保存されているというのだ。
 
 そして、われわれ日本人が絶対に忘れてはならないのが、大東亜戦争終結後、日本にすべての戦争責任をなすりつけた「復讐(ふくしゅう)劇」の極東軍事裁判(いわゆる「東京裁判」)で、その裁判そのもの不当性を訴えて日本人被告全員を「無罪」と主張したインド代表のラダ・ビノード・パール判事であろう。
 
 日露戦争の際に19歳だった彼は、そのときの感動を次のように述べている。
 

 同じ有色人種である日本が、北方の強大なる白人帝国主義ロシヤと戦ってついに勝利を得たという報道は、われわれの心をゆさぶった。私たちは、白人の目の前をわざと胸を張って歩いた。先生や同僚とともに、毎日のように旗行列や提灯行列に参加したことを記憶している。私は日本に対する憧憬と、祖国に対する自信を同時に獲得し、わななくような思いに胸がいっぱいであった。私はインドの独立について思いをいたすようになった。

1944年、飢えと病気で次々と倒れ、歩ける者だけが生き残った「インパール作戦」の敗走路=タイ・ミャンマー国境付近(井上朝義氏撮影)
1944年、飢えと病気で次々と倒れ、歩ける者だけが生き残った「インパール作戦」の敗走路=タイ・ミャンマー国境付近(井上朝義氏撮影)
 つまり、近現代史における日本の軍事行動がインドの独立に大きく寄与し、そしてこうした近現代史の共鳴が、インドを世界屈指の親日国家にしていったのである。インドは日本と歴史観を共有できる国であることを忘れてはならない。
 
【参考文献】
・靖国神社「遊就館」
・日本会議事業センターDVD『自由アジアの栄光』
・ASEANセンター編『アジアから見た大東亜戦争』(展転社)
・名越二荒之助編『世界から見た大東亜戦争』(展転社)
・田中正明著『パール博士の日本無罪論』(慧文社)