このブログは「中年おじさんの散策」3の継続版です
この企画は 私が引率します sosamu@ya2.so-net.ne.jp
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子規庵 03-3876-8218
子規庵の建物は、旧前田侯の下屋敷の御家人用二軒長屋といわれています。
明治27年子規はこの地に移り、故郷松山より母と妹を呼び寄せ、子規庵を病室兼書斎と句会歌会の場として、多くの友人、門弟に支えられながら俳句や短歌の革新に邁進しました。
子規没後も、子規庵には母と妹が住み、句会、歌会の世話をつづけましたが老朽化と大正12年の関東大震災の影響により昭和元年に解体、旧材による重修工事を行いました。
昭和2年、母八重(83歳)没。
同年7月子規の遺品や遺墨等を保管するため土蔵(子規文庫)建設に着工。
昭和3年、子規門弟を中心とする子規庵維持保存会が財団法人子規庵保存会として認可され、初代理事長には正岡律が就任いたしました。
昭和16年妹律(71歳)没後、同20年4月14日の空襲により子規庵は焼失。
幸い土蔵は残り貴重な遺品が後世に残されました。
現在の子規庵は昭和25年高弟、寒川鼠骨等の努力で再建され、同27年東京都文化史蹟に指定されて現在に至っております。
明治32年6月下旬/子規庵にて当時の子規庵は現在と異なり、六畳間の濡縁や八畳間の縁側のガラス戸もなく開放的な建物でした。
北側の道路に面した観音開きの木戸を開けると、そのまま玄関の靴脱ぎであり、玄関のガラス戸はあり ませんでした。
時代により異なりますが、小園は建仁寺垣や板塀で囲まれておりました。
又、庭からは上野の山を望むことが出来たということです。
子規没後100年を経て、子規庵の周囲は大きく様変わりしておりますが、子規庵の縁側に腰掛けて小園に目を投じていただければ、静けさと、訪れる小鳥の姿にも当時の子規庵を偲んでいただけることでしょう。
子規没後も母と妹はここで生活をし、句会歌会の世話を続けました。
関東大震災の影響と老朽化により写真の建物は昭和元年に解体され、瓦や梁などの旧材を使い復元工事が行われました。
昭和元年の復元工事では、母と妹の生活上の希望から六畳間の濡縁や浴室が追加され、台所の仕様も変わりました。
現在の子規庵は、昭和25年の復元時に昭和元年の復元仕様を基に施工されています。
大正12年の関東大震災を辛うじて免れ、昭和元年の大規模復元工事を終えた子規庵は、昭和20年の戦火で焼失してしまいました。
しかし、子規庵の復元と保存を切望する高弟寒川鼠骨等弟子たちの協力により焼失前の建物に復元され現在に至っております。



20180413 東京北東
東京都台東区根岸
台東区根岸付近
根岸(ねぎし)は、東京都台東区の町名。現行行政地名は根岸一丁目から根岸五丁目。住居表示実施済み区域である。名前の由来は、上野の崖の下にあり、かつて海が入り込んでいた頃、木の根のように岸辺がつづいていたためといわれる。
根岸及近傍図(明治34年発行)には大空庵・御行の松・円光寺・梅屋敷跡・石神井用水・笹乃雪・おまじない横丁・一本橋・五本松・台の下・御隠殿跡・水鶏橋・貝塚・善性寺・羽二重団子・古奥州街道・雨華庵跡・石稲荷神社・火除・二股榎・世尊寺・西蔵院・札の辻・大猷公廟跡・鶯谷・桜川・元三島神社・鶯・鶴・水鶏・山茶花・夏葱・谷中生姜・三河島菜・根岸土・万年青・煮山椒が挙げられている。また、正岡子規旧宅子規庵が現在も残る。

20181025 東京北東 史跡・見学
東京都台東区根岸
子規庵
子規庵は、子規が家族とともに明治27年(1894)から晩年を過ごした場所で、加賀藩前田家の下屋敷の御家人用二軒長屋でした。大学予備門以来の友人である夏目漱石を始め、多くの文人たちがここを訪れました。雑誌『ホトトギス』の発刊や、代表的な随筆集『病牀六尺びょうしょうろくしゃく』や日記『仰臥漫録ぎょうがまんろく』などはここで書かれました。子規は狭いながらも庭の草木を愛し、その光景を作品の中に多く書き残しています
昭和20年(1945)の戦災で家屋は失われましたが、門人の寒川鼠骨さむかわそこつらの尽力により、5年後に子規の過ごした長屋の一部がほぼそのままの間取りで再建されています。





